函館麦酒製造所とビアホール 『実利実益 北海道案内』より
前期においては、石黒源吾が100石未満の麦酒を一時醸造していたが、この期になると資本家渡辺熊四郎と技師金沢正次の提携による本格的な麦酒醸造所が誕生する。明治31年に発足した函館麦酒醸造所である。谷地頭72番地の土地、煉瓦建の工場兼貯蔵庫、その上に建てられた木造平家建1棟(内部には煎麦室とビヤホールがおかれた)、ドイツ製の醸造器械(器械原動力蒸気)、それに運転資本1万円を含めて3万円の開業資本のうち、金沢正次が5000円、残りは渡辺熊四郎が用意して、金沢正次の個人経営の形式で創業された(『初代渡辺孝平伝』)。金沢は兄が東京の桜田ビール会社の経営者であったので、明治20年渡米、サンフランシスコのバーリヤ麦酒会社で研究に従事し、24年の帰国後は桜田ビールの技師であった。したがって、醸造器械の据付はすべて金沢技師があたり、原料の大麦は札幌郡産を使用し、葎草は米国産であった。目標の醸造石数は1000石で、職工は男女10人余、30年10月以降醸造したものを、31年4月下旬より発売している。販売先は区内を主とし盛岡、仙台、秋田、酒田、新潟など各地へ移出した。商標登録は30年12月に受けているが、黒ビールと赤ビールの2種類であった。しかし、商標の図案や肩貼レッテルの広告文は札幌麦酒会社の全くの模倣であり(越崎宗一『函館麦酒始末記』)、また函館ビールの販売にあたった区内の特約店7軒は渡辺熊四郎をはじめ、札幌麦酒会社の函館特約店をかねる問屋が多かった。上述のビヤホールで一般客に提供した生ビールは美味で評判も高かったといわれるから、品質的に札幌ビールに遜色があったとは思われないが、資本力の格差が大きかった。しかも、札幌、恵比須、朝日の3大ビール会社が激しい競争を展開していた時である。34年10月の麦酒税課税に伴なう製品価格の値上げでも、表9-27でみるように函館ビールは値上げ時期がおくれており、値上げ率でも札幌麦酒の14パーセントに対し、函館麦酒は9パーセントで両者の価格差はさらに開いている。 資本家の渡辺は始めは小さく、試験期間の5か年を経た上で拡張を考えていたし、区内の販売店間でも金沢正次の個人経営を資本金20万円の会社組織に改めようとする動きが33年4月に、すでにおこっていたが、発起人間で2万800余円の工場買収価格に異議が出て、不成立に終わっている。かくて、37年7月を以て函館麦酒醸造所は閉鎖されるが、工場は直ちに丸善菅谷商店が焼酎工場として使用した。創業以来の製造額の推移と札幌麦酒会社との比較を表9-28で示した。金沢正次は廃業後、函館を切上げて南洋方面(シャム?)へ行き、石鹸の製造をはじめたということである。 |
表9-27 明治34年赤ビール価格比較表
年次 | 札幌麦酒 | 函館麦酒 |
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 | 8円60銭 8. 60 8. 60 9. 00 9. 40 9. 80 9. 80 9. 80 9. 80 9. 80 9. 80 9. 80 | 7円80銭 7. 80 7. 80 7. 80 7. 80 7. 80 7. 80 7. 80 7. 80 7. 80 8. 50 8. 50 |
平均 | 9. 40 | 7. 92 |
注:4打1箱の価格である.
函館麦酒は建値8円50銭につき、割戻40銭を付けている。
明治34年『函館商業会議所年報』より引用.
表9-28 函館麦酒会社・札幌麦酒会社比較表
年 次 | 函館麦酒 | 札幌麦酒 | ||
製造高 | 製造額 | 製造高 | 製造額 | |
明治31 32 33 34 35 36 37 | 8,022打 10,870打 346石 403石 403石 400石 56石 | 7,938円 12,500 14,000 19,269 20,000 17,000 238 | 102,369打 225,226打 16,797石 20,449石 11,199石 | 235,219円 461,701 429,000 475,716 587,902 715,743 558,838 |
『北海道庁勧業年報』より作成