販売市場と経営収支

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 ここで、鮭・鱒販売市場の模様を紹介しよう。「函館は鮭・鱒売買の一大市場なり、稀に新潟に直航する船舶もあり、輓近小樽港にて稀に売払うものあれども、最初多くは函館港に至り価格を探知し、又広く諸方の相場を電信にて問合せ最も高価の地を選び更にその地方に運搬す、故に販売の大取次所というも可なり、而してその販路をあぐれば鮭は東京を第一とし、次に仙台、塩釜と新潟なり、鱒はサガレン島総高十分の六は新潟へ、その余は東京、仙台、塩釜、石巻、酒田、秋田、直江津、敦賀、伏木等とす、近年汽車と海運の便開けてより大阪、下関又は九州方面へも少しく鮭・鱒の輸送を見るに至れりという」(明治29年9月11日「樽新」)。
 鮭・鱒建網漁業の経営収支については、明治17年のアイロフ・ナイプツ漁場のものと、明治35年当時、サガレン島漁業組合で作成した新網1か統損益計算を表9-67・68で掲げた。
 
 表9-67 鮭鱒漁場1か統損益計算
鱒漁獲高 240石売上高
鮭漁獲高 160石売上高
1,231円29銭 6厘 
960円      
合  計 400石売上高
2,191円29銭 6厘 
漁場仕込諸物品(漁網、漁船等) 651円
25銭を5か年間使用として1か年分
消耗品(膳椀、柿渋等)
漁夫20名給料
産地より函館まで運賃
積石数5分水夫手当(船中用捨と称す)
函館にて売捌の節、周旋料、水揚蔵敷その外
 
130円25銭   
535円      
340円      
400円      
109円56銭 5厘 
65円73銭 8厘 
費用合計
915円30銭 3厘 
差引残金
610円69銭 3厘 

 「外交史料館史料」より引用
 明治17年サガレン島東海岸「アイロフ」「ナイプツ」網1か統の損益計算
 
 表9-68 鮭鱒漁場1か統損益計算
鱒漁獲高 350石売上高
鮭漁獲高 150石売上高
3,499円86銭   
1,626円66銭 9厘 
合  計 500石売上高
5,126円52銭 9厘 
漁場仕込高
同上金利(4か月2%宛)
売上口銭(2.5%)
運賃
艀賃倉出入合塩等
保険料
3,840円93銭   
302円32銭 7厘 
128円16銭 3厘 
500円      
128円16銭 3厘 
39円47銭   
費用合計
4,939円05銭 3厘 
差引残金
187円47銭 6厘 
露国納入税金
530円10銭   
総差引不足金損失
342円62銭 4厘 

 明治35年当時『樺太と漁業』(樺太定置漁業水産組合)より引用
 
 表9-67では、漁船、漁具等の固定資産を5か年間の使用として、1か年分のみを損費に算入し、産地より函館までの運賃や水夫手当、函館港での売捌手数料ほか雑費等の経費の総計を売上高から差引いた残金の610円70銭は、売上高対利益率にして、27.9パーセントであるが、固定資産つまり漁場仕込諸物品を全額1か年の損費とすると、利益は89円70銭となり、この時の売上高対利益率は4.1パーセントである。
 表9-68は、前者より収獲高で500石と100石多い売上高であるが、漁船、番屋、切倉、網倉等の固定資産のほか、すべての仕込みを含んだ金額を全額、1か年の損費として計算している。運賃や販売手数料、仕込高に要する金利を加えた費用を売上高から差引くと、187円47銭の利益が算出される。しかし、ロシアへの納入すべき税があり、その外に日本側の輸入鹹魚税もあったから、新網での鮭・鱒漁業の着業初年度は1000円をこえる損失をみることになる。したがって、30年代では、新規に鮭・鱒漁業を開業する妙味はなくなっていたわけである。
 
 表9-69 鰊漁場1か統損益計算
鰊漁獲製造締粕 1,500石
目減り入目5%正味 1,425石
売上高
17,812円50銭   
 
漁場仕込一切
同上金利(7か月2%宛)
売捌口銭手数料 2.5%
運賃
艀賃倉出入等一切
12,092円50銭   
1,692円92銭   
445円31銭 3厘 
1,125円      
170円      
費用合計
15,764円71銭 3厘 
差引残金
2,047円08銭 7厘 
露国納入税金
1,150円50銭   
差引純利益
897円28銭 7厘 

 明治35年当時『樺太と漁業』(樺太定置漁業水産組合)より引用.ただし上記数字に不突合があるが原表のまま掲載した.
 
 一方、鰊漁業の損益計算を表9-69でみると、漁船、漁網、番屋、粕倉、網倉等の固定資産から一切の消耗品を含んだ仕込高を1か年の損費とし、その他の経費も加えて売上高から差引くと、純益金が897円28銭となる。これは売上高に対して、5.0パーセントの利益率であり、仕込一切を1か年で償却した後の利益であるから、第1、2期の鮭・鱒漁業に匹敵する収益を鰊漁業があげていたことがわかる。また、鰊漁業でも春先に青田相場が立ち仕込みがおこなわれることは鮭・鱒漁業と同様であったが、鰊漁業は裏作として鱒漁業を兼営できる利点もあった。30年代に盛んに輸入された鰊締粕を取扱う商人の函館へ集まった状況を次の一文が明らかにしている。
 「明治三十年頃の函館の海産界は北洋漁業の曙光期にあたりましたので、まさに旭日のような勢で発展していったものでした。仲浜町一帯は海産商が軒をつらね、いまの小熊倉庫あたりで東京深川の肥料商岩出商店、静岡の安達支店、伊勢は四日市の田武支店などがあって、おもに魚肥を取扱っておりました」(岡本康太郎「函館財界五十年」昭和26年1月1日より『函館新聞』に連載)。
 以上のように、明治期の露領樺太漁業はロシアによる様々な圧迫があったにもかかわらず、鮭・鱒漁業、鰊漁業を中心に発展を続けた。これら漁業の漁場主毎の漁獲金額の合計額(前掲表9-53 交換条約と出漁)は、当時の諸製造業の各業種別製造額(本章第2節2を参照)をはるかに上回るものであった。しかもこれらの漁業に投下された資本は、4か月から長くて半年で確実に回収され、高い利益率であったから、これを取り巻くように鮭・鱒・鰊製品の販売・流通を担う商業資本、さらにまた広汎な仕込物資に関連して派生した関連産業資本が函館を舞台に登場し、そこで運用され増殖し続けた。函館の産業、経済に深くかかわった資本であるから、これを函館資本と称することができよう。

樺太地方漁場図