6月には石井弥三郎に建築請負が決まり、同年8、9月頃完成予定で木材の切り組みが始まった(明治13年「公立富岡学校建築書類」道文蔵、明治14年「区会議事録」)が、東本願寺の移転がスムーズに進まず、着工は翌14年にずれ込んだ。物価の高騰や子供たちの放置による学事の後退など、これ以上着工を延期できない函館区は、予定地に接続した山側の私有地を新たに購入し、14年6月、ようやく着工へこぎつけたが、落成間近の11月29日、失火により新築校舎は焼失、再び公立小学校の開校は延期となったのである。
大火後に新築・開校した公立弥生小学校
しかし常野正義・渡辺熊四郎・今井市右衛門・平塚時蔵・平田兵五郎・伊藤鋳之助の再築有志発起人が941人から集めた寄付金5380円5銭(前掲『北海道学事新報』)と前回の寄付金の残額を合わせた″天神町建築学校費″をもとに、規模を20教室から14教室へと縮小して学校の再築を実現、ついに翌15年4月9日入学式を挙行した。校名は西側の坂名にちなみ「弥生学校」とした。収容児童数は500名で、焼失した松蔭・内澗・常盤各校の子供たちを主に収容した。なお渡辺・今井・平田・平塚の4名はこの公益への尽力が認められ、15年9月藍綬褒章が贈られた。
その後同じ年の10月弥生小学校新設資金の残金を元に函館公立女学校(小学校)を元町に開校、公立小学校の女子の一部を移した。こうして再び函館の学校教育が開始されたのである。開拓使は廃使され、3県分治の函館県の時代になっていた。