私立函館商船学校

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 海運は明治政府の発足以後その保護育成政策により著しい発展を遂げ、船舶数特に西洋型帆船の船舶数は急増した。これら西洋型船の増加をはじめとする海運の発達に対応して、政府は明治8(1875)年三菱汽船会社へ補助金をだして航路の開拓と同時に海員の養成や技術訓練を命じた。こうして発足したのが郵便汽船三菱商船学校のちの東京商船学校である。一方開拓使も8年5月海難防止の面から500石積み以上の日本型船の新造を禁じ、西洋型帆船を製造するように布達した(『開拓使布令録』)。この開拓使の奨励により北海道も西洋型帆船の時代に入ることとなった。しかし開拓使は造船の奨励はしたがそれを動かす海員の養成には手を付けなかった。船主たちはこの和船から西洋型船への海運界の変動の中で、西洋型船に対応できる新しい技術を体得した海員養成の必要を痛感せざるえなかったのである。
 特に船主の多い函館では、小林重吉を中心に村田駒吉・田中正右衛門ら42名の船主たちが、雇い船員の再教育を目的とし、12年2月15日、公立内澗学校の1教室に5年間の結社による夜学の私立商船学校を開校した(明治12年「願伺届録」道文蔵、2月16日付「函新」)。東京の三菱商船学校に遅れることわずか数年だった。設立願書によると教員は2名、生徒は40名を予定し、教則・校則は別紙となっているが、残念ながら「願伺届録」の中にそれらは綴られてなく具体的な学校の教科内容などは不明である。この学校開設の中心となった小林重吉は、すでに10年5月から日高の三石で、武田斐三郎の門人で長男の友人ともいわれている吉崎豊作を教師に抱えの船長や船員へ対数用法・三角法推測・子午線緯度実測や信号旗用法を学ばせていた(同前)。翌11年11月からは吉崎と生徒を函館へ移し、重吉の自宅に無月謝夜学を開き(『区民事跡調』)、抱えの船長や水夫長ら13名に、毎夜6時から9時まで信号旗用法、三角術推測、羅針方位、普通算術などを学ばせたが(前掲「願伺届録」)、この夜学を一段と発展させたのが内澗学校内に開設された商船学校だったのである。
 商船学校は12年6月22日には富岡町の称名寺境内の一隅へ移転、8月には東京から中山信成を迎え、校則・教則を改正した(明治13年「商船学校書類」道文蔵)。改正された校則・教則によると、生徒の年齢制限は無く、無月謝で、学課は本則・仮則課に分かれ、本則課は6か月を1期とし「尋常航海学ノ科目ヲ修メ、至当ノ船長司官タルヘキ者ヲ教導」し、仮則課は3か月が1期で「速ニ航海学ノ概目ヲ修メント欲スルモノ、或ハ実地ニ従事シ傍ラ航海学ノ概目ヲ修メ小形船長タラント欲スルモノヲ教導」した。また幼年課を置き海員希望の小学生を対象に海員候補生の育成もした。
 商船学校は主に現役海員の再教育の場だったため、繁忙期の春から秋にかけてはどうしても入校者が減少した。その緩和策として夜学を開校したり、あるいは函館支庁から船主へ常に数人の海員を函館に残して授業を受けさせるよう諭達してもらう(前掲「商船学校書類」)などして、何とか時代の要求に即応した商船学校の機能を発揮しようとしていた矢先の12年12月、大火に類焼、校舎は焼失した。翌春の海員試験を控え早速西浜町の船改所見張所が建っている土地へ校舎新築の願いが出された(前掲「願伺届録」)。
 再築の土地は貸与されたが物価の高騰などにより資金繰りがつかず、敷地内の船見張所を一時仮校舎として借用、翌13年10月28日に仮校舎の隣地に新校舎が落成した(10月29日付「函新」)。その間2月に規則が改正され、4月に海員試験が実施され、8月には卒業式も行なわれた。2月に実施された海員試験については第7章1節でもふれられているが、47名の受験生はすべて現役海員で、内39名が合格している(前掲「商船学校書類」)。