「神仏判然令」が発布され、それを踏まえた「太政官の布達」が出された明治元年閏4月からほどない8月に、榎本武揚を中心とする旧幕府軍が江戸を脱走して蝦夷地に道をとり、ついにはわが五稜郭を本営として維新政府軍と相対峙して、世にいう五稜郭の戦いを12月に構えたため、箱館をはじめ渡島・桧山地方は程度の差こそあれ、戦乱の渦に巻き込まれたことは言うまでもない。とすれば、箱館戦争が終息をみる明治2年5月18日までの約半年間は、「神仏判然令」の伝達、施行の時期であるにも拘らず、渡島・桧山地方は、文字通りの無政府状態の極に陥っていたのであるから、明治維新政府の宗教政策たる神仏分離とはいえ、十分に実施され得なかっただろうということは、十分に予測されるところである。
案の定、神仏分離の様相を物語る函館地方の史料は甚だ僅少である。かつまた、函館の歴史を紐解くに際しては、当時のさまざまな史的状況からいっても、松前・江差地方との地域的関連は無視しえない。よって、渡島・桧山地方の神仏分離の状況を総体的に追跡しながら、函館のそれをうかがい見ることにしたい。
「今般諸国大小ノ神社ニオイテ神仏混淆ノ義ハ御廃止ニ相成候ニ付」に始まる明治元年閏4月4日付の「太政官の布達」が松前藩において寺社奉行所名で、神官白鳥家に伝達され、各村々の社家にも相触れるよう命じられたのは翌2年5月朔日のことであった(『神道大系北海道』)。この時期は旧幕府軍が未だ江戸を脱走する以前であるから、中央の情報も順調に届き、松前城下の神官達は中央政府の「神仏分離令」を、「産子ノ中ニ寺院有之角ハ、右寺内ニ小社ニテモ祭来候ハバ、為念心得置申度候間、何神ノ社何数社ト申所、取調相しらせ被下度奉存候」(同前)というように、忠実に城下付の村々に伝達していったのであるから、明治元年の神仏分離政策は北海道においても先ずは順調に滑り出したとみていいだろう。
しかし旧幕府軍が北海道に渡り、函館を拠点に政府軍と交戦を始めるや、渡島・桧山地方は一転して混乱のるつぼと化し、神仏分離政策は大きく停滞してしまう。松前における神仏分離政策を伝えていた社家の日記類にも、箱館戦争後のそれを書き記したものは見当らず、その時期の神仏分離政策が果たしてどのように展開したのか、全く不明である。