中教院のおかれた願乗寺
明治5年の明治政府における教導職設置の決定をうけ、開拓使の黒田次官は、「北海道ノ儀モ、至急施行相成候様仕度、筥館港ニ於テ、耶蘇教蔓延ニ付(中略)長崎同様、相当ノ教導職両三名御差下」(『神道大系北海道』)と、函館にはキリスト教が蔓延しているから、即刻、長崎と同じく2~3名の教導職を派遣してくれるよう、正院に依頼した。明治5年5月22日のことである。6月26日には許可がおり、10月には教部省12等出仕少講義七星正泰、同深川照阿、同植田有年の3名が来函した。10月27日には、早速、浄玄寺・願乗寺を説教場として教導を開始している。各県に1院ずつ設けられることとなっていた中教院が決定したのは年が明けた明治6年2月18日のことであった(「開公」0874)。
七星らの申請により、中教院に指定されたのは、「西本願寺掛所願乗寺」であった。ここに、願乗寺を中教院とする教導体制が整った函館宗教界は、11月3日の天長節をもって中教院の例祭日とすることを決めつつ、明治6年においては、毎月2・3・4の3日間を中教院、12・13・14の3日間を能量寺、22・23・24日の3日間を高龍寺で説教・訓導することに決定した。この説教場は、中教院を除いては毎年交替しており、例えば、明治7年は次のようになっていた。
毎月9回の説教で始まった教導体制も、明治7年には、12回に増え、しかも夜講が9回も開かれることになったことは、注目される(開公」0575)。日中の仕事時間を考慮した結果であろうことは推測に難くないが、逆からいえば、それだけ聴聞しようとする需要が増加してきたことを示していよう。
そうした函館における教導職の聴聞熱を肌身に伝えてくれるものとして、次の史料に注意したい。
庶務課 中判官 民事課 会計課 昨壬申冬説教開講以来、敬信ノ徒日々相増、常弐三ヶ所講義ノ外、信者自宅等ヘ日夜招待有之候様相成、未タ一周年ならざるノ際、中教院興立、三府四港其外ノ嚆矢と相成、(中略)如件にして半途萎靡致し候様ノ儀有之候テハ、独リ災を四方ニ伝えるのみならず、更ニ邪徒ノ揶揄を相増可申、因テハ聊なり共費用御補成有之、益民心を鼓舞し連々永続相成候様致度、(中略)此段相伺候也。教部大録 清原真弓 同十二等出仕 河井順之 開拓権中主典 兼中講義 今泉長保 同 森貞清 明治六年 同 小貫康治 八月八日 同権少主典 五島広高 (明治六年「教部省関係文書」道文蔵) |
この一文が敬信の徒が増加し、信者の個人宅で説教が催されるほど盛行であったことを伝えていることは、一目瞭然であろう。
ただここで、彼ら教導職の人々を悩ませたのは、右の一文にも散見するように、「費用御補成」、つまり経済的助成であった(秋元信英「明治六年札幌神社の大教宣布運動と函館」『地域史研究はこだて』第11号)。
説教に要する費用は、昼講1回で25銭、夜講1回で50銭であり、教場3か所における年間費用は、明治7年を例とすると、63円となっていた。この費用の捻出方法として、函館支庁の杉浦中判官も教導職の世話役である講幹たちも、開拓使からの公費300円を頼んでいた。講幹たちの見込案によれば、公費300円を基本金として、それを貸付けて1か月、金20円当たり25銭の利子を課して、年間45円を計上していた。従って、必要経費63円との差引の、18円は、教導に関わる講である「報本社」の有志から説教ごとに1人につき、金2厘ずつ募って当てようとしていた(「開公」5775)。