函館におけるキリスト教の庶民布教

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 それでは、函館におけるキリスト教はどんなプロセスを経て市民レベルで受容・伝播していったのであろうか。あるいはどんな宗派形態で市中布教が展開されていたのであろうか。それを垣間見る一素材として、次に明治初年~明治39年の時期に存在した〈キリスト教諸宗派一覧〉(表11-7)と〈キリスト教諸宗派の受洗者数〉(表11-8)を掲げることにする。
 
 表11-7 キリスト教諸宗派一覧
宗派名
所在地
沿      革
ハリストス正教元 町ロシア宣教師ニコライが文久元年に来函したのに始まる。明治2年に帰国したニコライは、再び明治4年来函し、本格的な伝道に乗り出す。翌5年、函館布教を修道司祭アナトリイに託して、自らは上京。明治4年に始めら れた復活祭の時は参拝者7名に過ぎなかったが、同6年には150~160名になっていたという。仙台出身士族のキリシタンが開拓使庁に捕縛された所謂「洋教」事件が発生したのも、ちょうどその頃のこと。明治6年のキリスト教解禁以後、伝教学校、正教学校を設けて、伝道師養成や児童教育に努めるなどして、徐々に教線を拡張していった。
日本基督教会相生町函館師範学校(現在の道教育大函館分校)の英語教師桜井ちかの夫桜井昭悳が明治16年、同地に教会を設立したのに始まる。同23年には教会内に共愛倶楽部を設け、職業指導あるいは禁酒運動を展開。明治40年の大火で全焼したが、翌年再建。
日本組合基督教曙 町元治元(1864)年函館より渡米した新島襄の感化育成に溯源し、直接的には明治32年、牧師二宮の函館伝道に始まる。
日本メソヂスト教会会所町明治7年、米国美以教会伝道会社のエム・シー・ハリスが来函して、函館美以教会を創設したのに始まる。ハリスは宣教師と米国領事も兼務していたため、開拓使長官黒田清隆との知遇もあったという。明治10年、当地に会堂を建設。
日本聖公会蓬莱町明治7年、英人ウォルター・デニング宣教師が来函・伝道したのに始まる。同10~11年に帰国したデニングに代ってジェー・ウイリアムスが勤めてその間に教会を新築。同12年にデニング、再び来函するも同15年帰国したのち、アンデレスが教会の拡張に努力し、同28年、曙町の会堂を増設したり、東川町に伝道所を設置するなどした。また、同22年に靖和女学校、同25年にアイヌ学校、同29年に函館伝道学校を設置して教育界に大きく貢献。同会のアイヌ伝道専任たるジョン・バチェラーが来函したのは明治10年であ り、同25年に札幌へ転住するまでの15年間、函館を拠点に精力的なアイヌ伝道を展開、同30年の頃、アイヌの信徒は700名を数えたという。バチェ ラーに代ってコルバンが来函したのは明治30年、翌年東川町に施療病院を創設(新川病院の前身)したが、同40年に健康のため閉院して千葉県移住。
天主公教元 町安政6年、フランスの宣教師メルメ・デ・カションが来函したのに始まる。その後、文久3年の帰国まで医療・フランス語教授などに従事。メルメの後、ムニクー、アルムブルェステルの両宣教師の布教活動を背景に函館天主堂を建設。明治12年の大火の折も、幸いにして災禍を免れた。明治24年、初代司教としてベルリオーズ就任。明治23年に来函したベルリオーズが孤児を収容したのをきっかけに、同31年上湯川の地に、フランス・トラップ 修道院の分派たる修道女院「トラピスチヌ」を開設。明治34年、ベルリオーズは亀田村に司教館を移して仮教会も設置。

 
 表11-8 キリスト教諸宗派の受洗者数
宗派名\年次2-56789101112131415161718192021222324
ハリストス正教        260179200446         
1817112130
日本基督教会            38     43  
日本メソヂスト教会   223      512 312322
日本聖公会   3 914 11  11   8 6 3 
天主公教2027143096683728    15133139594216 

 
宗派名\年次25262728293031323334353637383940
ハリストス正教    333348343345924 949993100610161016
68311341251913182724112013
日本基督教会  5766 281415783 1 
日本メソヂスト教会2 6612316192161150182918
日本聖公会432493 12    462       
天主公教         6454313

 ハリストス正教の上段は北海道全体の信者数、下段は函館のその年の受洗者数を表す
 日本基督教教会の明治16年は創立時の信者総数、明治22年の信者総数である
 日本聖公会の明治25・26・33年は、北海道全体の信者数
 天主公教の明治元~23年は元町カトリック教会の分、明治34~40年は亀田・宮前カリック教会の分
 
 各年『大日本正教会公会議事録』(盛岡ハリストス正教会蔵)
 『函館聖ヨハネ教会沿革史』
 『日本基督教団函館教会100年史』
 函館相生町教会『創立七十年史』
 天主公教の受洗者数は久保田恭平氏の提供によった
 

教会の隣接する元町界隈

 
 上記の〈宗派一覧〉と〈宗派の受洗者数〉から、少なくとも次の特徴点が指摘できよう。
 第一は、安政6年のメルメ・デ・カションの来函に始まった天主公教(カトリック教会)の布教が、函館の近代キリスト教界を先導したことであり、その営みは明治6年のキリスト教解禁以前からすでに始動していたのである。ハリストス正教が前の「洋教一件」にみたように捕縛騒動に巻き込まれたのに比して、天主教の方は静かな船出であった。
 函館における公然たる布教活動が本格化するのも、やはり明治6年の解禁以後である。近代布教の歩みを通観して、その受洗者数を尺度にして測ってみると、明治9年とその翌年がピークをなしていることに気付くであろう。すなわち、明治9年には天主公教が従前の伝統をベースにして空前の96名もの入信を得ていたし、同10年にもそのキリスト教ブームが続き、日本聖公会においてはアイヌ伝道の師ジョン・バチェラー(Batchelor,J.)の来函もあって一挙に14名の受洗者を出していたのである。
 この明治9~10年=近代キリスト教伝道のピークとすることはほぼ大過なかろうが、それと表裏することではあるが、その宗派の伝道の成否のかなりの部分は-例えば、日本聖公会のジョン・バチェラー、日本基督教会の桜井昭悳のように-伝道者個人の資質・才能に拠っていたことも指摘されていい。この伝道者個人に依拠しながら、明治9~10年に受洗者数のピークを形成していたことを、函館の近代キリスト教界の第二の特徴点としておきたい。明治9~10年に受洗者数が、まさに空前絶後の量的達成を示したのは、ある意味では、前の「洋教一件」を遠巻きながら見守ってきた市民のキリスト教に対する理解がより深まった結果なのかも知れない。明治6年のキリスト教解禁を受けて、明治9~10年に、堰をきったように函館市中にキリスト教信者が輩出したことだけは、揺ぎない歴史的事実である。
 そして今一つの特徴点をあげるなら、明治初年~39年の中で、明治9~10年は文字通り、突出した信者を獲得したものの、それが以後も平均して増加を続けていったかといえば、決してそうではなく、むしろ、信者の受洗状況は変動の過中にあったことである。言うなれば、キリスト教は函館市中に庶民レベルで受容され定着するには、一定の試行錯誤があったのである。
 では、試行錯誤をくり返しながらも、キリスト教が徐々に函館市中に、ひとつの宗教として、あるいはひとつの文化として根付いていく様相を、次に「函館新聞」を素材にして検証してみることにしよう。