招魂社
明治期の函館の神社群にあって、最もにぎわいをみせたのは函館招魂社=函館護国神社の例祭であった。箱館戦争の官軍方戦没者の慰霊を目的に建立されたこの招魂社には、95の墳墓地に155名の霊が眠っている(「函館松前桧山招魂社明細帳」道文蔵)。5月11日の例祭に先立って、境内清掃は囚人によってなされるのが当時の常であった。その催し物は市中の他社を圧倒するにぎわいで、消防組の梯子乗り・手踊りのほかに、なんと蓬莱町競馬までもが行なわれていた。その盛況ぶりを「函館新聞」は、「夜に入ってハ招魂社内、数百の奉燈、昼を欺くバカリなるに参詣の男女ハ坂の往来に充満して昼よりも衆(おほ)し」(明治11年6月22日付)と報じた。催し物は年によって多少の変更があり、明治13年には帆前船の競争も加えられていた。「函館新聞」によると、競馬は招魂社の祭礼行事の一環として、明治17年まで興行され続けていた。その始期については史料的に俄に断定できないが、杉浦嘉七の作とされる「函館風俗補拾」(『函館市史』史料編1)に「以前は函館市中に於て競馬せしと言伝ふ。いつの頃より歟、亀田八幡宮華表(とりい)前に於て年々競馬の催し有ける」とあることから判断して、招魂社の建立された明治2年後に求められるのではなかろうか。なぜなら「函館新聞」が創刊された明治11年の記事には、亀田八幡宮に於ける競馬は既に過去のものとして報じられることなく、招魂社の競馬が詳細に伝えられているからである。また、明治8年の函館支庁の「御達留」に「蓬莱町ニ於テ競馬差許候条、此段可相心得候事」と見えることを考え併せると、招魂社の競馬の開催始期は、その建立年次の明治2年~同8年のいずれかの年に求められるだろう。少なくとも、函館の庶民レベルにおける競馬は神社祭礼の催し物の目玉として始まったことは紛れもない事実である。それは恐らくまず幕末~明治初年の亀田八幡宮において興行され、その後、明治2年~8年の頃から招魂社の祭礼として大規模化して行ったのではなかろうか。
現に、札幌競馬の始めも、札幌神社の祭典の呼び物の1つとしての、琴似街道の路上での直線競馬に求められるのである(『札幌競馬沿革誌』)。してみれば、函館における競馬の始点を亀田八幡宮に求め、その展開相を招魂社の祭礼の中に見出すのも、そう誤りではないだろう。「函館新聞」によれば、その招魂社の競馬は明治17年、北海共同競馬会社主催の競馬が開始するまで存続していた。
このように、競馬興行は神社祭礼の大きなイベントとして採用され、神社の宗教的機能の1つと考えられる北海道開拓における「定着の論理」の発現に大いに威力を発揮したのである。
箱館戦争が函館に2つの慰霊祭をもたらしたとすれば、1つはこの官軍方のための招魂社祭礼であり、今1つは日蓮宗実行寺を施主とする碧血碑における旧幕府脱走軍戦死者のための慰霊祭である。先にも指摘したように、明治14年の碧血祭は、脱走軍戦死者の一三回忌に当たるため、殊のほか盛大な法要が執り行なわれたという(明治14年5月24日付「函新」)。