種痘の普及

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 天然痘は古く奈良時代から日本人を苦しめてきた病気である。北海道においては、和人の移住が原因でアイヌの間に流行し、安政年間に桑田立斎深瀬洋春が幕府の命でかれらに種痘を施したことは『函館市史』通説編第1巻に記載されている通りである。さて函館における一般住民を対象とした種痘は、明治2年に開拓使の命で、函館病院に小児を出頭させたのが始まりである。全国各府県に種痘実施命令が出されたのは3年で、函館は種痘に関しては先んじて実施していたことがわかる。4年、東校に「種痘局」が設置され種痘に関する規則が定められた。それにより、種痘を行う医師は「種痘術免状」が必要とされたのである。函館の医師のうちでは、5年、開拓使等外1等付属の鈴木良斎や8年、開業医深瀬洋春が免状を交付されている記録がある。しかし総体でどのくらいいたのかは、わからない。痘苗(牛痘漿)もこの種痘局から分与された。そして開拓使はこれを本・支庁に配賦して種痘の普及を計った(『函館県衛生年報』)のである。痘苗はまだ簡単に手に入るものではなく、東京から送付されていたのである。従って、数量が限定されているから、種痘の発生のよい人から痘漿を採取し、それを順次接種することが行われていたらしく、18年に至ってもそれが行われていたことが新聞に載っている。しかしこの人化痘漿は、他の伝染病を媒介する恐れもあり、衛生上問題があることはいうまでもなかった。9年になると天然痘予防規則が布達されて、初めて強制種痘の制度が設けられるに至った。公立豊川病院ができてからは、そこでも種痘が行われるようになった。また民間では、軍医の前田政四郎が余暇に会所町で診療所を開いたが、14年にやはり東京から痘苗が到着したからと、そこで種痘をする旨の広告を新聞に載せている(12月6日「函新」)。表12-3は各年間に接種を受けた人員数であるが、19年と25年は「不善感者」が突出して多い。「不善感」とは接種をしてもよい反応がでないということである。函館の天然痘の流行年(患者が100以上の年)を調べてみると、19年が患者数1247人で翌20年が192人であったが、19年は全国的に大流行の年で、患者総数は7万2300余名であった(『内務省史』)。また、同25年が1007人で翌26年が315人である。こうしてみると、その両者の因果関係がはっきりと現れていることがわかる。
 
 表12-3 種痘接種人員
 区分

年次 
種 痘 接 種 人 員
天然痘
患 者
善感
不善感
合計
明治   7
     8
     9
  10
  11
  12
  13
  14
  15
  16
  17
  18
  19
  20
  21
  22
  23
  24
  25
  26
  27
  28
  29
  30
1,692
8,820
6,529
1,284
2,427
1,462
336
216
938
601


631
34
192

977

462




503
394
614
255
195
844
299
92
282
412


9,703
332
182

294

2,368




2,195
9,214
7,143
1,539
2,622
2,306
635
308
1,220
1,013


10,334
366
374

1,271

2,830
















1,247
192
0
0
0
98
1,007
315


9

 『函館市史』統計史料編より作成