享和3(1802)年、茶屋渡世(営業)の者19名が株仲間を組織し営業の公認を願い出た。これが函館における公許地での茶屋営業の始まりであり、以後山ノ上町界隈は茶屋町として発展した(「維新前町村制度考」『函館市史』史料編2、「北海道温故雑識」)。文政元(1818)年には地蔵町の築島(古築島、後の船場町)への出店も許され公認の茶屋も31軒と増加したが、松前復領時代は町の活気も一時停滞し茶屋営業の一部は株を返納した。その後安政期に入り再び幕府直轄となり町の景気が回復すると、この種の営業も日々盛んとなり、箱館奉行は増加する茶屋を21軒と制限し、そのほかは引手宿・下宿などと呼んで音曲類を禁止させ、仲間内に行事を置いてその取り締まりをさせた(前掲「維新前町村制度考」)。また茶酌女などを置いて遊女屋同様の所業をしている者や安易に淫らな所業に就く女たちへは「是迄ノ心得違ハ不及沙汰候間、以後正路ノ渡世可致」(嘉永7ヨリ慶応2年「御触書写」『地域史研究はこだて』9号)とのお触れを出すなど、増加する茶屋や私娼(公の許可なく遊女の所業をする女性)の取り締まりをした。