巴珍報

1454 ~ 1457 / 1505ページ
 函館では、かねて滑稽と風刺を気取った雑誌として『巴珍報』の発刊が計画されていたが、明治15年10月4日、その第1号が発売になった。同日の「函館新聞」紙上では『巴珍報』の発刊をとりあげて、「風雅と洒落の雑誌にて本港の通人達が面白い投書を何くれとなく書集め、女子供にもわかる様傍訓(かな)雑りの至極いき筋の小型の冊子」として宣伝している。創刊号の目次は叙、諸家祝詞、諸家詩、温古随筆蝦夷楽器の事、狂詩、雑話、都々一、函館芸者細見、古今粋書目録となっており、社説をもじって茶説としたりして『団団珍聞』の模倣がうかがわれる。明治11年1月創刊の「函館新聞」には早くも翌2月、東京の「団団社」が『団団珍聞』の広告を出しており、函館の書籍店にも入荷の記事があるので、『巴珍報』は函館における『団団珍聞』愛読者層からの支持を意識して編集されたものであろう。
 『巴珍報』は四六版の袋綴じ、本文は10枚前後の体裁であり、社主は末広町で紙類卸売業を営む糠谷弥七郎、編集は「函館新聞」の岡野敬胤が担当していた。また、発行は毎月2回、定価は1部6銭、発行所は巴社と名づけ仮本局を糠谷の店においた。この創刊号は好評で1000部以上も売れ、以後は毎月4日と18日に発行し、市内の書籍店以外に松前、江差、寿都、森、紋鼈、根室、小樽でも発売することになった。さらに、一般読者からの、投稿を歓迎し、川柳、狂歌、都々逸などは毎回社題を決めて広告し、応募作品は次号に掲載する方式をとった。これらの作品にはそれぞれ本名ではなく、ペンネームを使っているので、どのような人達が投稿しているのかを知ることは困難であるが、この頃の函館には、かなり多くの風流人がいたことは推測できる。当時の豪商杉浦嘉七も由縁舎色香(ゆかりやいろか)という雅号を用いて毎号のように多くの作品を寄せているし、そのうえ、『巴珍報』発刊にあたっての出資者の1人でもあったようである。編集者の岡野は日高郡様似で出生、その後各地を転住して明治14年6月来函し函館師範学校付属小学校予備教員となり、8月には「函館新聞」の編集長代理を務めていたが、後に印刷人になり、16年から19年までは編集人として名を連ねるようになった。また、『巴珍報』ではペンネームを我物傘雪(わがものさんせつ)と称して茶説なども書いていた。なお、岡野は知十とも号し俳人として著名であり、俳諧関係の著書を多く残している。
 この『巴珍報』に挿絵を描いていたのが、日本画家として有名な平福百穂の父、平福穂庵である。穂庵は秋田県角館出身、晩年には上京して中央画壇でも活躍した人物であるが、この時期は函館に滞在していて、かつて知遇を得ていた盛岡の商人瀬川安五郎の函館出張所の仕事を手伝っていた。また、函館で取材したアイヌの風俗画を数点描いたりしているので、画才を発揮しつつ約2年間をこの地で過ごしたものと思われる。
 ところで、穂庵が函館滞在中に秋田県令より函館県令宛に送られてきた文書が道立文書館の簿書に保存されているので、次に紹介しておこう。
 
拝啓、陳ハ本県画工平福順蔵事穂庵ヘ今般仏国巴里府ニ於テ日本画出品ノ義ニ付、該地会頭ヨリ照会有之候処、右順蔵義ハ御管下ニ遊歴罷在候趣ニ付、御手数ノ義ニ御座候得共右出品心得書ニ比準シ早速相認メ、日限迄ニ出品候様御伝達被下度、則規則類相添此段及御依頼候也
秋田県令                                

    十六年十一月廿日
        時任函館県令殿
(「本県各課往復」道文蔵)

 
 これは要するに、明治17年3月にフランスで開かれる「第二回巴里府日本美術縦覧会」へ穂庵の出品を要請されていることを函館まで知らせてきたもので、この時は「鷲」という作品を描いて提出したのである。また穂庵は17年4月、函館で出版された『函館繁昌記』にも「函館全景図」を口絵に描いている。この『函館繁昌記』は、やはり当時函館滞在中の文人高須墨浦(治助)が函館市街の現況や風俗などを記した漢文体の本である。これは、明治初期における話題の出版物『東京新繁昌記』(前編は明治7年、後編は同15年刊)と同類のもので前・後2編から成り、函館の公園、芸妓、温泉、割烹店、西洋料理、勧工場、遊郭、女紅場などの様子を描写している。
 『巴珍報』は明治16年4月、新聞紙条例改正により発行の際の保証金納付制度導入に対し、「我巴社の如きも元色男の企てなれば、豈に保証金を出す力あらんや」(『巴珍報』第15号)として5月18日発行の第15号を最後に廃刊することになった。ちなみに、このような発行保証金供託不能のため、5月18日までに廃刊届けを出した新聞・雑誌は東京地区に限っても32誌におよんだのである。なお、『巴珍報』は廃刊しても巴社は解散せず、記事、体裁を「大いに改め精々面白く書き綴った」『巴冊子』と改名して翌月から発行することを最終刊の末尾に広告しているが、その後、同名の雑誌が発刊された形跡はない。