館構築の年代

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 亀田館の構築年代ははっきりしないが、おそらく『東北太平記』の記録から推して文安元(一四四四)年ころであろうと考えられる。『新羅之記録』の中にあるいわゆる道南十二館の中に、亀田館や戸井館(岡部館)などが見当らないが、おそらく道南十二館の形成以前に造られたものであり、なんらかの理由により松前藩の正史ともいうべき『新羅之記録』に記されなかったものと思われる。
 前に記した『十三往来』や『諏訪大明神絵詞』の記録からも知られるごとく、十四世紀ころすでに道南地方に居住するアイヌ人は自ら本州へ交易に出かけ、または裏日本から来航する和人船と交易することを知っていた。
 『後鏡』によれば応永三十(一四二三)年安藤陸奥守が室町幕府に献上した品の中に海虎皮三〇枚、昆布五〇〇把とあるが、これらの品は蝦夷との交易によって入手したものであろう。
 このような状況の中で、十五世紀ごろ東北地方で起きた南部氏と安東氏の戦乱の結果、戦いに敗れた安東氏一族は、かねてより交易を通じ知識を得ていた道南地方の海岸線に移り住み、館を中心に和人勢力をまとめ、漁業権や交易権をアイヌ人から奪うようになっていった。このことはアイヌ人にとっては生存上の大問題であり、やがて蝦夷大乱発生の原因となった。