代官と下代がいつころから置かれたものか、つまびらかではないが、『北海道旧纂図絵』によれば、正保元(一六四四)年代官白鳥孫三郎源久武、郡吏多郎左衛門の名が見られる。
前記『榊家譜附録』によれば、寛文九(一六六九)年に亀田代官佐藤彦左衛門の名がみられ、下代についても二代榊多良右衛門「亀田代官下代役を勤む凡十二年也」と記され、三代仁四郎は元禄二(一六八九)年に榊家を相続し、箱館に移っていることから、この年次前に二代多良右衛門が十二年間下代をしていたものと思われる。なお同書によれば、四代榊吉右衛門(亀田代官下代役)五代榊多良右衛門(亀田代官下代士分格)と記されている。この記録がすべて確実というわけではないが、下代の役名は正保元(一六四四)年には郡吏、その後下代と呼ばれていたようである。
松前藩は奉行所設置当時は、奉行を福山(松前)より派遣し、代官以下の下代・名主などの役人については、地元の者の中から由緒ある家の者を士分に取り立て任用していた。その後代官については、奉行の勤務の項で記したように、春三月ころ松前から亀田へ来着し、秋には松前へ帰る松前派遣の役となった。なお代官の制度がいつころまで存在していたか不明であるが、『松前藩の職制について』(新しい道史第三巻四号)によれば、箱館奉行―吟味役―下吟味役(名主)―年寄―小使―手代足軽の制度があり、吟味役は松前から派遣と記されている。
この時の吟味役というのは以前代官と呼ばれていたものではなかろうか。下代の制度は前松前氏時代の終りまで続いたものと思われる。