小頭は亀田郷中の各村に配置されたものであるが、これもまたいつのころからこの制度が採用されたのかつまびらかでない。
『逢坂氏日記』安永三(一七七四)年の記事に、「箱館 小頭彦右衛門、亀田 幾右衛門、尻沢部 三郎兵衛、ゆの川藤七、石崎 吉郎右衛門」と記され、更に同書の安永八(一七七九)年の記事には「村々小頭 箱館 孫四郎、有川吉左衛門、湯ノ川 善次郎、かぢ村 勘次郎、上山 長四郎、大野 太十郎、七重 仁八、濁川 宇兵衛、石崎 与兵衛、戸切地 名主太十郎の名前があり、このことから亀田郷の各村ごとに小頭が置かれていたことがわかる。
なお同書によれば同じころ、亀田郷以外の戸切地、泉沢には名主が置かれ、藩士の給地(所)である茂辺地、富川、汐泊、木古内には肝入(煎)がいたことが記されている。