亀田地方は気候、地形に恵まれ、相当古くから畑作が行われていたものと考えられるが、その時期を明確にすることはむずかしい。
『新北海道史』第二巻通説一に、「史料として確実なものといえないが、箱館の旧家白鳥家の記録によれば、慶長年間(一五九六―一六一四)箱館付近の亀田に渡り、農業をすすめ同地方を開墾したという。」と記されている。おそらく慶長年間ころから亀田地方で畑作が行われていたものであろう。
時代がやや下るが、元禄四(一六九一)年四月亀田奉行に出された法令によれば、前記したように、
一 支配の村々百姓壱人も他村え有付間舗候。惣て跡目無二断絶一様可二申付一候事。
一 昆布時分より早く新昆布商売候儀堅令二停止一候。
附 五年も捨置候畑地は、新世間の者共にまかせ可レ申候。畑作仕廻候はば、面々在所え出越年候様急度可二申付一候事。
とあり、この当時亀田奉行の支配する知内以東亀田までの地域では百姓は家を絶やさないこと、五年間も放置していた畑は新たに家を持った者に自由に耕作させること、畑作に適当な場所で自由に耕作していた者は、自分の家に帰って年を越すことなどが命令されていた。
また畑の耕作方法について、最上徳内の『蝦夷草紙』によると
東在郷には喜古内の沢辺に濁川、文月、大野、一野渡、七重、上山、銭亀沢、この七ヶ村は畑作を一業とす。此外松前所在島一国の民家は皆漁業を専務とすれども、前件の村々は耕作を専一の業とす。予大野村の荒林儀兵衛といふ百姓の宅に旅宿せし時に、耕作の事をたずね問に、荒起を上とすといふ。予問て荒起とは何の事ぞといへば、答て曰く、荻、萩、薄等の繁茂せし昿野を、夏の土用中に苅捨ておき、八月の中頃放火して焼き、翌春に至りて鍬を入れて畑とするなり。是を名付けて荒起といふ由聞けり。初年より三年斗りは耕作物もよく熟しつれども、五年程も経て後には土地疲て諸穀もみのらざる故、是を捨て又外の所へ荒起をするといへり。
とあり、この当時は焼畑農業が行われていたことがわかる。焼畑の方法は、前年火入れして置いた土地を、春から耕作するというやり方で、草木灰を肥料として利用することと、耕作の手間をはぶくためであったらしく、当時の亀田付近では農業人口も少なく、耕作可能地も広かったところからこのような農耕方法がとられ、はじめのころは農業は漁業の片手間に行われるのが普通のようであった。
また前記元禄四(一六九一)年の亀田奉行の法令中に「五年も捨置候畑地は新世間の者共にまかせ可レ申候」とあるように、焼畑により耕作を行った場合、土地から肥料分が失われてしまうのが早く、このため放置されているものも多かったが、松前藩はこれら放置された土地についても、以前に耕作していたからといってもその者の土地に対する権利を認めず、新しく耕作しようとする者に対して自由に耕作する権利を認めていた。