前幕府時代には森林の保護に重点が置かれていたのであるが、再直轄した幕府は殖産興業の立場から森林の育成に重点を置くようになった。
すなわち箱館奉行は七重村に薬園を開き、ここで佐渡から取り寄せた杉、松の苗を育て、これを五稜郭周辺及び箱館付近の街道筋に植林した。なおこの時、松、杉のほかに桜、かえでも植えられ、その数は数万本に及んでいた。
このほか箱館奉行は村々においてどれほど実施に移されたか、つまびらかではないが、田畑や屋敷境などの空地に、うるし、くわ、こうぞなどを植え付けさせるため、安政六年次のような触書を出している。
触 書
村々百姓共のため、杉、漆、苗木一軒五百本の当を以、山野荒蕪の地え植付方の儀、木村芳之助引請為二取扱一候条、其旨兼て可二相心得一、尤植付場所並仕法等は、追て可二沙汰一候。右の趣不レ洩様可二相触一候。
また、『蝦夷地御開拓諸御書付諸伺書類』には当時の状況を次のように記している。
一 諸木苗木仕立方の儀は差向御要務ニ付、支配向は勿論、御雇在住の者等え申含、村々の者共へ教諭為レ致候故、市在ともニ有志の者は植付地所等拝借又は林立請地等願出候間、夫々割渡候処、追々苗木献納致候者も出来候間、木品の善悪多少ニ寄、開墾御入用の内を以相当の御手当被レ下方取計、且諸苗木并木実類、御入用を以諸国より取寄、箱館最寄并手近の村々山附、野合空地の場所へ苗木仕立所取立、追々諸場所へ移植可レ成、致二成木一候へば、往来筋へ次第ニ植附候積ニ有レ之、亀田御役所最寄惣構外通并往還筋へ松、杉、桜、楓等の苗木数万本植附候処、根附方も宜候間、累年往還筋へ植継、経路へも及し、田畑、屋敷境、畷(ナワテ)、畔等えは漆、桑、楮(コウゾ)等の類を重ニ為二植付一候積に御座候。
更に『匏菴遺稿』にも次のように記されている。
杉松の二種は其種子を佐渡より呼び取り毎年蒔き付け、其長ずるに従ひ追々地を壙めて移植し、予が箱舘を去る年には、其苗四、五尺に至る者既に数十万本ありしかば、先づ亀田五稜郭を週りて之を植へ、又箱舘より五稜郭に至る道を挟で列植したりしが、其後追々箱舘より七重浜を経て大野、有川二村に至る官道、及び箱舘より亀田桔梗野を経て七重村に至る道にも皆遍く列植し、猶ほ近在近野にも普く及ぼし、村民の購ひ得て植んと欲する者には、価を廉にして売与ん事を見込て、専ら計画せしめたりき。
このように箱館奉行は強力に森林の育成政策を講じたのであるが、一般の農民には前時代同様、すぐには収入にならないことや、植林を行い、手入れするだけの金銭や時間的余裕がなかったため、箱館奉行の政策は、なかなかその実績をあげることは出来なかった。
こうした中で亀田地域では、東本願寺開発場桔梗野(別称六条郷安寧村)による植林が見られる。万延元(一八六〇)年八月、本願寺によって桔梗野―七重浜間に幅五尺の砂利敷道路が建設されたが、この時両側には幅六尺、深さ四尺の排水溝が設けられ、路傍に柳千五百本が植樹されている。