『松前天保凶荒録』別称『備荒貯蓄一件』(北大図書館蔵)には天保年間における亀田諸村の飢饉の状況が次のごとく記されている。
同郡亀田神山鍛冶三村
天保年間ノ凶荒聞ク処ニ拠レハ同三年辰ノ春雪多ク、解雪ノ遅キカ為メ牛馬飼料ノ秣不足シ、野菜穀物凶作、同四年巳ノ二月沓潮ヨリ米穀ノ価追々騰貴シ、九月ニ至リ白米一俵 四斗入 金一両、十月ヨリ米及酒ノ売買止ミ、人民大ニ苦ミ藩ヨリ一人ニ付米三升索麺一把価四百文宛ニテ払下アリ、又鍛冶村ニテ十日間家一軒ニ付米三升五合、但一升ニ付百三十五文ニテ払下アリ、五月旱ノ為メ野菜穀物種ナシ小麦一俵一両一分、大豆一升百五十文、蕨ノ花 澱粉 壱升三百五拾文、大坂酒壱樽四両、越後酒同二両、糯米壱俵三両迄ニ騰貴シ、人民ノ困苦限リナシ、依レ之藩庁ヨリ直下ケノ達アリ。
同五年春ヨリ夏ニ至リ、東風 ヤマセ 雨多ク、土用過キ旱シ亀田川水不足、七八両月大風雨、此年始メテ積穀ノ達シアリ。
同六年春旱、寒気甚シク、強風大雪ニテ三月下旬解雪ノ色ナク、秣不足ニシテ馬大ニ斃ル。六月初メ西風吹キ続キ、穀物野菜モノ種ナシ。九月ヨリ米売買止ミ、斗り米一軒ニ付五升ツヽ。
同七申年春ヨリ夏ニ至テ寒ク、近年稀ナルコトニテ野菜種子高価、人参種子一杯 二合五勺 六百文、茄子種子一ツ四百五十文、大根種子一升金二分。七月中東風吹キ、寒気寒中ノ如シ、八月中旬茄子玉子ノ如キモノヲ見ル。南部、津軽船止メニテ米売買ナシ。故ニ老若男女近傍山々ニ出テ蕨ヲ掘リ採リ 今神山村地内ツヅミ向辺ナリ 食物トス。九月足軽在々エ出蕨掘被レ命。十一月廿日大雪ノ為メ蕨ヲ掘ル不レ能、人民饑餓、此時米一俵価二両、越後酒一樽一両一分ナリ。官ヨリ御救トシテ一人ニ付米三升宛下与。
同八酉年免(兎)角雪多ク此年ノ食物ハ大根、蕎麦、麦、稗等ヲ交セ食シ、家業蕨掘リノ外ナシ、米ハ一升ニ付三百三十文、小豆一升二百文、醬油一杯百文、酢同百四十文位ナリシ。此年モ官ヨリ救助アリ人民大ニ助カリシト。
以上述ブルカ如ク天保三年ヨリ同八年迄六ケ年間気候不順、作物不熟打続キタル故、九年大饑饉ニテ近国ニ於テ餓死ノモノアリシ由、然レドモ亀田鍛冶神山村等ニ於テハ雑穀モ少々アリ、且近山ニ蕨多クアリシ故幸ニ餓死ヲ免レシト云フ。
同郡桔梗赤川大中山石川四村
天保四年ハ夏降雨打続キ東風 ヤマセ 吹キ、炎暑ノ候ト雖モ単物ニテハ凌キ兼ヌル程ノ気候ニテ、穀類ノ内麦ハ並作ニテ大小豆、粟稗ノ類ハ結実セス 当時ハ米作及馬鈴薯ノ作ナシ 秋比ニ至リ食物欠乏シ、糊口一方ナラサル困難ニ及ヒ、老若男女ノ別ナク日毎ニ山野ニ出テ蕨ノ根ヲ掘リ採リ食用ニ充ツ、其他雑草等苦味ヲ帯ヒサルモノ及有毒ノモノヲ除クノ外ハ食用ニ供セサルナキニ至レリ。然レトモ幸ニ餓死ヲ免レ、纔ニ生存スルヲ得タリト。
同五年ハ穀物等並作ニテ飢餲ニ窘(クルシ)ムノ患ナカリシ由。
同六年七年ハ東風降雨打続キ、夏中暑気ヲ覚ヘス、麦作ヲ除クノ外ハ穀類豊熟セス、人々蕨ノ根等ニテ漸ク生命ヲ保チ、前四年ノ凶荒ニ比シ一層惨状ヲ呈シタリ。然トモ天然草ノ𩜙多ナルヲ以テ幸ニ餓死スルモノナカリシト。
同八年ハ作物半作位ニテ人々食ニ飽クノ歓楽ナシト雖トモ稍蘇生ノ思ヲナシ、家業ニ従事スルヲ得タリ。
函館ニ於テ他道ノ輸入穀ナキヲ以テ販売セス、六年七年ノ間ハ殆ント米飯ノ味ヲ忘レタルモノヽ如シト云フ。
このように記されていることからも知り得るように、亀田諸村は天保三年から七年にかけて大飢饉に襲われている。
次に、亀田、鍛冶、神山の諸村の飢饉の状況と、百姓の生活について考えてみることにする。
天保三年の春は雪どけが遅く、このため馬のかいばが不足し、また野菜不作のため日銭を得ることができず(普通は野菜を馬の背につけ、箱館に出て販売し、日銭を得ていた)。その上主食としていた穀物の不足により、農民の生活は質素倹約を余儀なくされた。
天保四年は米価が暴騰し、九月には白米一俵一両にもなり(天保三年の価格約一俵二貫五〇〇文、農民は普通白米を食せず)、この時松前藩により、一人につき米三升と索麺(小麦粉を水と塩でこね、油を加え、細く切り干した食品。そうめん)が救助用食糧として売られた。
鍛冶村では村独自に家一軒に米三升五合を非常米として販売した。五月には日でりのため野菜や穀物の種もなく、穀物、酒その他ことごとく騰貴しているが、この状態では農民は何を植え、何を飼い、何を食したのであろうか。「人民ノ困苦限リナシ」と右の『天保凶荒録』は記している。この時松前藩は食糧品値下げを布達したが、はたして効果があったであろうか。
天保五年春から夏にかけては雨が多く、夏の土用過ぎから日でりが続き、そして七、八月は大風雨、農民はない中から金を出し、借米をしてようやく植えた畑は天候不順のため連続して不作、農民の胸中やいかにと思いやられる。天候不順と何度かの飢饉に見舞われた松前藩は、穀物を貯えるように布達した。
天保六年は寒気と大雪のため雪どけが遅れ、このため馬の飼料が欠乏し、農民にとって大切な財産である馬が多数倒れた。落胆している間もなく六月初め西風が吹き続き、穀物、野菜の種さえなく、九月から米の売買もなくなった。(この年津軽、南部地方大凶作のため)。
天保七年春から夏にかけて、近年まれな寒さにより野菜の種子が暴騰し、貧しい上にたび重なる飢饉の大打撃を受けた亀田諸村の百姓はどのようにして種子を手に入れ、耕作したのであろうか。七月中の気温は寒中のごとく、南部、津軽は大飢饉のため船止めとなり、米の売買はなく、村民は必死で食物を集め、わらびの根を始め山菜、昆布など食べられるものはすべて掘り取り、拾い歩いた。わらびの根は粉にして食べたり、澱粉を作る。また澱粉かすを魚肉などと混ぜて煮て食べる。その他昆布を水にさらして乾燥し粉にした「オシメ」昆布とわらび根の粉をまぜ、熱湯でねって食べるなどであったが、こうした中で九月、松前藩は足軽にわらび根掘りを命じている。
十一月に至り、ついに命の綱であるわらびの根掘りも雪のためにできなくなり、物価はますます上昇した。この時藩は御救米として一人につき米三升を配布した。おそらくこのころには家々では五穀、塩、みそなどが尽き果て、生きるのがやっとという状態であったろう。
天保八年、食物は大根、蕎麦、稗などを少量混ぜて食していたが、家業はもはやできなくなり、「家業蕨掘リノ外ナシ」という状態となっていた。すなわち、働こうにも食物はなく、耕作しようにも種子がなく、出稼に行こうとしても馬もなしという状況で、大切な畑は荒れるにまかせられていたものであろう。この年も官よりの救助によりどうにか生き続けることができたという状態であった。
なお前記の『御用書留』の記事中に、上山村の三名の女子が箱館市中でこじきをしており、早速上山村へと送り返されたことが載っている。天保年間の飢饉で暮らせなくなった者の中には、百姓を捨てて箱館市中に流れ込み、何らかの形で生活をするか、仕事のできない老人や女子などの中にはこのようにこじきとなった者もあったようである。