役宅

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 役宅が造られた年代について『函館区史』によれば「安政三年該地に同心長屋五十軒を造り、後万延元年定役仮宅三十軒文久二年組頭、調役等の官宅十六軒を造る。」と記されておりまた『罕有日記』には「(安政四年)亀田村中箱館詰同心の長屋百軒程あり。」とあるところから安政三年には五〇軒の同心長屋が造られ、安政四年には何軒かの同心長屋が増築されたものであろう。『罕有日記』の著者は、安政四年に箱館に在った役宅を尋ねているところから、同心長屋は五稜郭に建てられたが、組頭・調役などの役宅は以前と同じように箱館に在ったことがうかがわれる。五稜郭の建設を開始したのは、安政四年の春であるから五稜郭の建設前より同心長屋が造られていたわけであり、同心クラスの役人は、ここに生活し、中にはここより五稜郭の建設を監督した人物もあったものと考えられる。
 その後年代は定かではないが同心長屋・役宅ともに箱館から移されたり充実されたりして、同心長屋約一〇〇軒・役宅九一軒ぐらいにまでなった。『函館市史資料集第三十九集』によれば「喜三郎の設計書には同心長屋を除いて九一軒の役宅に配水するように立案されている。」とあり、雑誌『江戸』第五巻によれば「長屋百軒位」と記されている。なお同心長屋と役宅は明治二年五月十二日の箱館戦争の最中榎本軍側により放火され焼失したが、その数は約二〇〇戸であった。『渡嶋国戦争心得日誌 上下』によれば、
 
   (五月十二日)官軍の陸軍神の山台場よりも五稜郭へ破裂弾にて打出候に付徳川勢も困窮して五稜郭役宅弐百余軒も有之候所不残火を付焼失。
 
 とある。
 役宅の建設は中川伝蔵と源左衛門が行い、役宅使用の瓦は『函館案内 全』によれば、金子利吉が製造したものを使用したとして次のように記されている。
 
   「同心長屋建築に参与して同心長屋に使用すべき屋根瓦を引受け直ちに製造に着手す。是れ本港に於ける瓦製造の嚆矢なり。」