明治元年徳川幕府より蝦夷地の引き渡しを受けた明治新政府は、四月十二日その出先機関として箱館裁判所を設置し、清水谷公考を総督としたのであるが、一般吏員、用兵、建物などの大部分は旧幕時代のものを引き継いでいた。その後箱館裁判所はわずか十日余りで二十四日には箱館府と改められ、総督は知府事(一般には府知事)となった。従来から蝦夷地警備に当っていた津軽藩、南部藩、秋田藩は東北地方の維新争乱のために引揚げ、箱館府を警備するのは少数の松前藩兵と箱館府兵約二〇〇名というような防備体制となっていた。このような状況下にあって、清水谷知府事は榎本軍来襲の報を受け、早速救援の兵を求めたが、榎本軍の鷲の木上陸一日前の十月十九日になってやっと津軽藩兵四小隊、翌二十日に福山藩兵六九六人、大野藩兵一七四人が到着し、それぞれ直ちに榎本軍との戦闘に備え配備に就くという有様で、海陸軍とも充実した榎本軍に比較して箱館府(官軍)側の防衛力は、はなはだ手薄な状態であった。
鷲の木に上陸した旧幕軍は蝦夷島に渡島した趣旨を箱館府に訴えるべく嘆願書を人見勝太郎に持たせ三〇名の護衛をつけて出発させた。
一方では箱館を包囲する体形をとり、大島圭介隊は本道を進み、土方歳三の指揮する一隊は川汲峠を越えて箱館に入ろうと策動していた。