『函館戦記』(彰義隊員某の手録・市立函館図書館蔵)によれば、
明治二年己巳春正月
元日共ニ正ヲ稜城ニ賀シ、桝ヲ酌テ先ツ駿城ヲ遙ニ拝ス。新餅ヲ以テ各隊ニ配与ス。二日ヨリ各士官兵卒マテ仏人ニ就テ陸軍調練ノ伝習ヲ受ク。敵兵ノ来ルモ亦近キニアリト大ニ諸兵ヲ戒メ、調兵ヲ厳ニシ、器械ヲ繕整シ、海岸要地ニ砲(ホウ)台ヲ備へ、胸壁ヲ築クコト数百ケ所、三軍腕ヲ撫シテ敵兵ノ来ルヲマツノ外他事ナシ。十七日五稜廓ニアル処ノ兵隊尽ク整列、上ノ山ノ神祖ノ太廟(ビョウ)ヲ拝シテ神酒ヲ全軍ニ与フ。此時外国人等其多勢ニ〆(シテ)勇鋭ナルニ驚歎スト云。此至ツテ猶要地戍兵ヲ増サシム。教師○フリウ子(ネ)全軍ノ上等士及(官カ)ヲ会シ、解惰ヲ戒シメ、協力敵ヲ禦カンコトヲ誓紙ヲ取テ稜城ニ約ス。
更ニ城裏ニ一周間当直ノ局ヲ開テ四十四ケ条ノ罰則ヲ、辰十二月新ニ四十二ケ条ノ法則ヲ極メ、改テ元ヲ厳ニシテ賞罰ヲ正ス。
此頃廓(カク)中ノ双門ヲ修フク(復)シ、胸壁ヲキツ(築)キ、巨砲ヲ備、専禦ノモウケヲナス。千代ケ岡又同シ。是ヨリ先幕政府ノトキ支那ノ海賊四十四人捕エテ禁牢セシメ有シガ、ココニ至テ出シテ工兵局ノ雇夫ニ代ラシム。大ニ益アリ。要地ニ戍兵ヲ分ツ左ノ如シ。
彰義隊 額兵隊 神木隊 見国隊 会遊撃隊ハ五稜廓ヨリ松前迄ノ海岸ニ、屯遊撃隊 陸軍隊一聯隊 炮兵 工兵ハ松前ヲ戍リ、人見勝太郎是ヲ鎮ス。佐久間悌次郎軍監タリ。一聯隊 炮兵隊 工兵ハ江差ヲ守ル。松岡四郎四郎(ママ)是鎮ス。忠門次郎、参堀覚之助ハ軍監タリ。伝習士官隊 新撰組ハ箱館ヲ戍ル、砲兵ハ函館辨(ベン)天台場ヲ戍ル。衝鉾(ホウ)隊ハ鷲ノ木 森 尾白内 掛澗 砂原 鹿部 熊泊尻 河汲 ヲシャマンベ 尾札部等ヲ戍ル、古屋作左エ門是ヲ鎮ス。モロランハ見国隊 海軍 開拓局ニテ戍ル。伝習歩兵隊 見国隊 杜稜隊 炮兵隊 器局諸官員等五稜城ヲ守ル。渋澤誠一郎ハ其隊ヲ引テ湯ノ川石崎ノ辺ヲ戍ル
というような状況であったが、次に榎本軍により亀田周辺に構築された主な台場の名称、位置、構築時期について述ベる。