決戦の状況

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四稜郭東照宮略図 市立函館図書館蔵

 明治二年五月十一日、海陸決戦のこの日、榎本軍側は四稜郭、東照宮方面へは松岡四郎次郎を長とする一連隊、梶原雄之を長とする衝鋒隊、それに砲兵隊を配置し、四稜郭には四つの砲座の内、山側の二座に砲を配置し、更に付近一帯には散兵壕(ごう)を構築するなどして守りを固めていた。また、東照宮境内正面向かって左側段丘上にも砲座が設けられ、小型の大砲が配備されていたらしい。このような榎本軍の防衛体制の所へ官軍が攻撃して来るのであるが、この四稜郭や東照宮の戦闘の状況について官軍側の記録である『岡山藩記』(要約)には、「五月十一日午前三時、街道に集合した先鋒岡山藩一中隊、徳山藩一中隊、長州藩の臼砲二門は撒隊にて赤川山手台場に進軍発砲したところ、賊は敗走したのでこの台場を占領し、それより神山四稜郭の北方山手より岡山藩精鋭隊一小隊、徳山藩一小隊、東方の山峰より岡山藩三番隊一小隊が攻撃をかけたところ、榎本軍は大、小砲を激しく打ち出し頑強に抵抗、東の山手へ撒隊を廻し挟撃の形勢をみせたので官軍側苦戦となる。この時本道進撃中の福山藩一小隊が増援され、更に四稜郭の南に位置する権現台場(東照宮)を長州藩が攻撃、激戦の後これを占領、ただちに南方より四稜郭の攻撃を開始した。このため四稜郭は南北より挟撃されることになり、榎本軍はついに朝六時ころ四稜郭より壊走した。」また、前記『函館戦記』には、「神山神祖ノ大廟江敵火ヲ放チテ烏有トナス。三軍大ニ怒テ力益奮ヒ防戦、敵大ニ走ラスト雖、彼衆我寡、終第三字ニ至テ胸壁ヲ奪ハレ」とあり、榎本軍が敗れて四稜郭を離れた時刻などはこのように官軍側、榎本軍側によりずいぶん食違いが見られる。実際には九時か十時ころまで戦闘が行われたものであろう。
 次に『奥羽並蝦夷出張始末』(岩崎季三郎)の記録によりもう少し戦闘その他のことについて探って見たい。
 
  此日当隊一中隊、備前一中隊と一同六時頃山手より赤川山上の台場へ相進みし所、賊徒少人数にて相守り居、我兵放射に及候処不戦して散乱、七字頃上山の砲台を襲ひ備前藩と申合、当隊を二手に分ち攻撃、此上山台場は賊の根拠五稜郭の要衝にて頗る堅固なり。仏人フリヨ子(ネ)ーと申して徳川雇入の陸軍教師築く所にて新五稜郭と称し五稜郭を去る事纔(ワズ)かに十二、三丁も有之申候。遂に土塁下深草の中を匍匐(ホフク)し、咫尺(シセキ)の地へ相迫りし節、本道の兵隊長州、水戸、福山藩も当台場へ相応し、賊も三面に敵を受け、大に僻易仕り候故、其機を失はず一同抜刀にて台場へ討入り候処賊徒散乱、五稜郭其外へ敗走仕り尚亦同所の南五、六丁の麓(フモト)に至り、徳川家康の社辺にも砲墩相設け応援し、兵屯集仕居候得共、是亦本道の長州兵突入に及び、両所とも同しく潰散仕候、依て其社に放火し、少し尾撃仕置候て備前其外一同上山台場へ引上け守衛仕候」
 
 とある。
 『祭神記』(東照宮神山御鎮座よりの記録)によれば「政府社殿此地ニ金壱万両余ノ掛リ蝦夷日光トモ称スヘキ大社ナリ」とまで言われた東照宮も官軍の手により放火され、残念なことに焼失してしまった。なお御神号については、「明治二己巳五月、上山東照宮社兵火に焼亡の節、御神号は様似等澍院え守護いたし……」(壬申八月巡回御用神社取調)と記されており、無事であったことがわかる。