道立林業試験場道南支場
見取図
桔梗奨励苗圃園
このような時期に渡島支庁でも道の造林計画を実施するため、桔梗の園田牧場の一角に特殊樹種用苗圃を設置したが、その時のいきさつについて当事者であった弘中徹世(渡島支庁林務係員)は、ある書簡に次のように記している。
渡島支庁桔梗奨励苗圃開設当時の事情
大正十五年春から第二期拓殖計画も愈々其の実施期に入り全道各支庁毎に林務係を置き、専門技術者を配置して本格的に林業の指導奨励に当らしめる事となり、各支庁に(根室、宗谷の両支庁を除く)苗圃五町歩を設け、本道の特有樹種(トドマツ、エゾマツ、カバ、カツラ、ホウノキ、ナラ、イタヤ、セン、ヤチダモ)の苗木を養成し、之を民間に無償交付して大いに造林を奨励するということになった。そして、当時、前記九種類を特殊樹種と名付け、此の樹種を養成する苗圃を奨励苗圃と名付けた。
私は大正十五年七月上旬、浦河森林事務所から渡島支庁林務係員として転任して来た。
当時、渡島支庁には林業指導者主任として高橋太郎技手が大正十四年に道庁地方林課から転任して来て居られた。
私は着任後直ちに高橋技手と共に苗圃予定地の選択に着手し、亀田村を中心に方々さがしたが、結局亀田村桔梗にある園田牧場の一部を借りるのがすべての点で一番便利であると思い借地の交渉に行った。
当時園田牧場は総面積約六百町歩を有し、東京在住の園田清彦氏の所有であって、之が管理者として清彦氏の叔父に当る武彦七氏が牧場内に居住し牧場一切の経営に当っておられた。
そこで私は高橋技手と共に武氏に会い、苗圃設置の事情を話し牧場内の一部を約五町歩借りたいと言ったところ。
「幸い教調場の端の方が空いて居る。それ位の面積なら充分取れると思いますから御気に召したら御使い下さい。」との返事であった。
そこで私達は武氏の使用人である上野金吾氏(武彦七氏死後は管理人となられた)に案内せられ現地を見に行った。
現地は大部分牧草地の様であったが南端の方には耕作した跡地もあった。苗圃地としては申分のない場所であったから早速之を借りる事にし武氏に話したら、
「お気に入りましたか。それでは近日中に上野に杙(クイ)を建てさせて置きますから御使い下さい。」との返事であった。
「借地料は一段歩当り五円では如何でしょう。」と聞いたら「結構です」と答えられた。
借地期間は二十年(これは第二期拓殖計画の実施期間が二十年であったからである。)と申込んだら、「一般小作人との借地契約が十年になって居るから貴方も一応十年にして置いて下さい。それでないと東京の方で何か言うかも知れませんから。」との事であった。
それから何日位経過したか忘れたが当方でも苗圃に定住する番人さえも定って居らなかったので、今度は番人をさがす事にした。ところが道庁地方林課の苗圃担任者松尾技手が来られて、厚別の道営苗圃で働いて居る大砂義三という男を是非定夫として使ってもらいたい。人物は引き受けると言われたので之を採用する事にした。大砂君はまもなくやって来た。八月の下旬か九月の上旬頃であったと思う。宿泊所がないので駅前の運送店桧山氏の宅に置いてもらった。武氏の方からも杙を建てておいたと言う知らせが高橋技手の所に来たので私と共に行って見たら四方に丸太の杙が建ててあった。この時、大砂君がいたかどうか思い出せない。私たちは、持ってきたコンパスで測ってみたら、教調場との境も隣接地眞倉眞一氏(小作人)との境も一直線になるように杙が建ててある。四方どの線を測ってみても屈曲した所は一か所もなかった。帰って製図してみると大体次の様な形になった。(注・前掲の見取図)
四方とも直線で結ばれ、一か所の屈曲もなくその上幅も上下同じで実に申分のない土地であった。
一つ、困ったのは面積が少し広過ぎる事であった。予定は五町歩であるのに、製図してみると六町四反五畝歩である。拓殖係の測量を専門とする技手に測って見てもらったが同じことである。一町歩余り返す事も出来ず仕方ないから地方林課長三木隆太郎氏に直接事情を申し上げ、諒解を得て六町四反五畝歩全部を借り受けた。
早速圃地の区画をする必要があるので、またまた拓殖係の技手に精密測量をしてもらったが同じことである。四方の境界線には何の屈曲も見られなかった。又、他の小作人からもだれも苦情を申し出た人はなかった。こうして苗圃地は円満に借り入れることが出来たのである。
私が十余年間事業に専任していたが、境界線については一度も誰れからも苦情を申し込まれた事はなかった。
桔梗奨励苗圃は以上の様な事情の元に円満設置せられたのである。
昭和四十五年十二月二十日書す 弘 中 徹 世