着工目的と経緯

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 かつて函館本線五稜郭駅から分岐して、戸井町市街に至るまで敷設されていた鉄道は戸井線とばれていたが、別に函館釜谷鉄道とも称していた。
 津軽海峡をへだてた軍港大湊と共に渡島半島は、函館山要塞をはじめ軍事上重要な地域として輸送力の整備を軍より要請されていた。
 大正九年、軍当局と鉄道院は、函館より戸井までの調査を終え、同院において調整された鉄道線路網表に函館・釜谷間十三哩(マイル)(約二〇・八キロメートル)を予定線として登載した。
 その他の予定線も含めて、予定線全部は以後三十年以内に完成させるべきであるという法案を国会に提出される見通しになったため、函館釜谷鉄道(以下戸井線という)早期着工を期して、銭亀沢村大字志苔村の松田令司が主唱者となって大正十年一月十六日、関係三村一九部落の有力者および三村長を湯の川芳明館に招いた。この「達成期成同盟会」の発足には黒住代議士も出席し、松田令司と共に本鉄道の必要性、有効性を説き、早期着工期成運動の必要性を論じた。そして各部落より幹事五〇名を選出し、次の決議を行った。
 
一、函館釜谷間の鉄道は国防及び地方発展のため急設の必要有り、且有利の路線なるを以て之れが速成を期する事
一、右目的を貫徹するため函館釜谷間鉄道急設期成同盟会を設立すること。但し関係十九部落より成立するものにして、一部落に付き二名以上の幹事を選定して事務を一任し、事務所は下湯川村佐藤祐知(有志総代)方に置き、同氏に常任幹事を嘱託する事
一、急速に幹事を選定し、各部落民の調印を取まとめ、二月上旬迄に速成の請願書を政府(総理・鉄道・陸・海軍大臣)及び議会に提出する事
一、上京員を選定して政府及び議会に陳情運動をなさしむる事
一、経費を急募する事
一、とりあえず電報及び紙面を以て黒住・佐々木・平出三代議士に尽力の依頼をなす事
一、本鉄道敷設の場合は、敷地に付ては地主をして寄付をなさしむる様極力尽力すべき事
 
 このようにしてその後関係市町村の緊密な連携の下に一致協力して敷設促進運動を住民の念願として訴え続けた。
 大正十三年七月、戸井村が津軽要塞地帯に編入され、戸井要塞の計画が軍部の手によって進められた。『戸井町史』によれば、現在の日新中学校の校地内に、兵舎や将校下士官の詰所があり、学校のすぐそばのミツコの沢の側面を掘って厚いコンクリートで固めた壕舎が二か所にあり、手前のものは探照灯の格納庫で、探照灯を崖(がけ)縁まで移動させるための線路が敷かれ、その枕木はコンクリート製であった。もう一つの壕舎は大きくて厚いコンクリートの壁で仕切られており、発電設備のあったところだといわれ、地下室や井戸の跡がある。
 また、戸井の沢の現在戸井高校のある近くにも数門の砲がすえ付けられ、近くに堅固な防空壕があった。これらを防備するために一個大隊が駐屯していた。このほか原木の山には、高射砲陣地が築かれ、ここには一個中隊が駐屯していた。
 これだけの要塞を構築するための軍需資材や物資、兵員を輸送するために、要塞計画と並行して、函館から五稜郭、湯川を経由して戸井に至る鉄道が戦争ぼっ発によって急激に脚光を浴びることになった。