天保九戌正月吉日 御用書留 鍛冶邑名主所
天保九戌正月吉日 御用書留 鍛冶邑名主所
天保九戌正月吉日 御用書留 鍛冶邑名主所
亀田の歴史は古いが、古文書は極めて少なく、「御借米覚帳」(文久三年神山村―丸山金次郎蔵)、「宗門人別帳」(明治三年神山村-道行政資料課蔵)、「宗門人別調査帳」(同鍛冶村同)、「村差出明細帳」(安政二年神山村―丸山金次郎蔵)「亀田村麁絵図」(明治三年亀田村―市立函館図書館蔵)および本書(市立函館図書館蔵)が残っている程度である。桔梗町の宝皇寺が昭和二十二年火災のため全焼した時に、貴重な史料を失ったことは、まことに惜しいことである。
本書は和綴一〇六枚にわたり、毛筆で書かれたものである。鍛冶村の名主所において助郷のこと、道路や橋の普請のこと、人足や馬の割当てのこと、巡見使を迎えるための諸準備のことなどを一か年間、月日に従って明細に記載している。
巡見使(天保九年には黒田五左衛門、中根傳七郎、岡田右近の三人が幕府巡見使として来道)については特に詳細であって、「天保九御巡見使要用録」(市立函館図書館蔵)にも記述されているように、迎えるに当って準備に手落ちのないよう細心の注意を払っており、村人がそのため各方面にわたって人足として使役された。いよいよ到着という時には最大の敬意を表するため、村人は謹んで家の中に引きこもり、間違いの起こらないよう心がけた。
人足として労力を提供するばかりでなく、「御巡見様御用金諸割合」として村中を三番に割り、一番(五軒組)に三貫四百文、二番(十軒組)に三貫四百文、三番(十一軒組)に対しては一軒につき百五十文ずつを割当て、「取立の段厳敷被二仰出一候」と記されているように、金銭的な負担もしていたようである。
記載内容は巡見使に関する事項が最も多く、道路や橋の普請についての人足割当てがこれに次いでいるが、巡見使を迎える時は特に道路と橋の普請についての作業量が多かった。
道路の普請については、「亀田、かち(鍛冶)村、上山村、赤川村、下湯川村名主年寄初御百性(姓)一同惣掛りいたし候様今日又厳敷被二仰付一候間、六ケ村御百性不レ残出し、今日より取懸り候趣被二仰出一候間、今日より取掛り可レ申候」とあるように、特に力を入れて工事を督励していた。「道橋御普請人足弐拾人、仮名主六郎添年寄重五郎組頭平蔵右差添下湯川村え相詰申候。」のようなことは常時であった。道路工事にこのように力を入れていたが、路盤が不完全なため破損が多かったようである。
助郷については、第二章において述べたとおり、役所から命令があり、村々に割当てられて勤務しなければならなかった。人足何人馬何疋といったことが多く書き記されている。触書のうちで「山火の用心」については、不心得者に対して、「見廻り次第召捕り吟味の上急度可レ被レ及二御沙汰一候。」と役所の権威を示している。
簾(すだれ)や秣(まぐさ)の割当て、あるいは玉子や野菜などの差し出し方についても記帳されているが、玉子は意外に生産量が少なかったようである。天保年間は凶作が続いたため、百姓たちの生活は苦しかったものと考えられるが、難渋の者に対しての救い米のことと、乞食についての注意が各一度だけ記されている。
質素倹約についての触書の内容は、日常生活における衣食住の一切にわたって詳細を極め、しかも厳重な注意であった。特に霊照院(松前章広)の素志を体して倹約すべき旨の触書は長文であり、その後段に「当年は御巡見使御下向につき労力や金銭に負担がかかり、町人や百姓に影響があるから質素第一に心がけるように。」と命じている。
小さな事項から全国的な事項に至るまで記載されているが、回文先の村々は、小範囲の場合は「上山村、赤川村、大川村、七重村、藤山郷」であり、普通は「亀田村より一本木、千代田郷、大野村、文月村、本郷、一ノ渡村、峠下村、藤山郷、七重村、大川村、赤川村、上山村、鍛冶村、上湯川村、下湯川村、志苔村、銭亀沢村、石崎村迄」で、更に「有川村夫より木古内村迄」というものもある。おおむね現在の亀田市、七飯町、大野町および旧銭亀沢村の範囲であった。回り方は亀田村から「鍛冶村夫より上湯川村」と「亀田より一本木村」と経路が二つあったが、亀田村が中心的役割を果たしていた。
鍛冶村の名主徳三郎(水島)、名主代理六郎、年寄重五郎、組頭平蔵、六三郎は鍛冶村のため各般にわたって尽力した。