志苔館の再建は、コシャマインの戦いの脈絡の中で考えなければならないのは当然であるが、今一つ見落としてならないのは、志苔館の東側に位置する戸井館の存在である。この館の存在が、志苔館の再築を考える上で重要と思われる。
戸井館について、『新羅之記録』は一言も触れておらず、いわゆる「道南の十二館」にはその名を止めてはいない。では、戸井館はいつ築造されたのだろうか。千代肇は、戸井館がコシャマインの戦いに登場しないのは、「比較的古い時期の築造」であるためという(「中世の戸井館址調査報告」『北海道考古学』五)。
「比較的古い時期」とは、いつの時点を指すのであろうか。
『戸井町史』が伝える戸井館にまつわる伝説によれば、戸井館は岡部某が長禄元(一四五七)年のコシャマインの戦い以前に築造したという。これを裏付ける文献は、松前藩の学者・蠣崎敏が、一七代藩主崇広の命をうけ、『蠣崎広時日記』から珍事奇談を抜き出して一書にまとめた『松風夷談』である。それによれば、文政四(一八二一)年、一人の松前藩士が、岡部の澗という入り江の通称岡部館付近で、古い石碑とともに古銭を発見したという。その石碑には、「岡部之弥太六代孫岡部六郎左衛門尉季澄」と刻まれており、発見された古銭の数は、約六万枚(六二貫余)で、最新銭は永楽通宝であったという。最新銭の永楽通宝の初鋳年が一四〇八年であることから、一つの可能性として、戸井館は、一四〇九年以後からコシャマインの戦いまでの時期に、岡部季澄によって築造されたことになろう。志苔館が創建されたのは、前にみたように、一四世紀末の頃と推定されるので、この志苔館に遅れること程なくして、戸井館が、アイヌと接する最東端に築造されたことになる。
しかし、和人の最前線基地として設けられたこの戸井館も、アイヌとの抗争に耐えきれず、一四五七年以前のある時期に、あえなく陥落することになる。岡部季澄は、のち、松前・原口に移り、「道南の十二館」の一つである原口館を築いた。
アイヌとの交戦の結果、戸井館が陥落すれば、そのアイヌと隣接するのは、いうまでもなく志苔館となる。志苔館には、東部アイヌに対する防衛的ないし最前線基地としての役割がどうしても求められてくる。それこそが、志苔館の再建時における和人館主たちの共通した要望であった。