この時期の道内の昆布採取業者について、『予察調査報告』は次のように書いている。「昆布採収ヲ業トスルモノニ二種アリ一ヲ専業者トシ一ヲ兼業者トス専業者ハ重モニ根室、釧路、日高地方ノ小営業者ニシテ…兼業者ニ二種アリ則一ヲ鰊鮭鰛等ノ大漁民トシテ一ヲ雑漁業ヲ営ミ若クハ鰊鮭鰮漁業等ノ雇夫タルモノトス而シテ大漁民ニシテ此業ヲ兼ヌルモノハ重モニ根室、釧路地方…小漁民ニシテ此業ヲ兼ヌルモノハ重モニ渡島国各郡ニ在リテ…渡島地方ニ於テハ此業ノ規模遥ニ小ニシテ多クハ自家限リノ営業ニ止リ船数モ亦一戸一二艘ノミ」。この地域の昆布採取業者は、雑漁業を営みあるいは鰊鮭(さけ)鰯漁業の漁夫となる小漁民が主体をなしていたとみられる。
また昆布採取業における仕込みについては、「根室、釧路、日高地方ノ小数ノ大営業者ハ重モニ自力ヲ以テ営ムト雖トモ其多数ノ営業者ニ至テハ十中ノ八九ハ仕込ヲ受ケザルモノナク甚シキハ干場及船ニ至ル迄悉ク之レヲ他借スルモノ少カラズ而シテ其仕込親方タルモノハ重モニ函館水産商若クハ地方ノ有力及ビ仲買商人ナリキ」とあって、道内の昆布採取業者は、その大部分が函館海産商あるいは仲買商人の仕込みを受けていたことが判る。だが、「渡島国ニ於テハ茅部地方ト亀田地方トハ大ニ其状況ヲ異ニス則チ茅部地方ニ於テハ仕込ヲ受クルモノ多ク…亀田郡中、汐首、石崎、志苔地方ニ於テハ概シテ自力営業者多キモ…」とあり、この地方の昆布採取業者は、鰯漁業者同様に自力の営業者が多かったようである。
ただ、鈴江英一(『北海道町村制度史の研究』)によれば、この時期の干場を所有する漁家七六戸のうち、七八パーセントが田畑所有者であることから、漁家の大半が漁業専業者ではなく、何らかの程度で半農半漁の状態にあったこと、そしてこの農業は、自家ないしは村内消費を充たす程度の段階に止まっていたことが推定される。一方干場を所有しない者は、立地条件の悪い村持ちの干場で昆布生産・製造をおこなうか、曳網業者に労働力を提供するか、または農業開発や炭焼に従事して生計を営むしかなかった。それだけに、干場を所有しない者の中には、地元の雇われ漁夫や、他地域の漁業に従事する出稼者となる者も少なくなかったようである。