伝承にみる仏教寺院

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 石崎町にある曹洞宗善宝寺の、寺院と壇家による寺院機構は、僧侶、「責任役員」(三人)、「壇家惣代」(六人、六地区から一人の代表)、「世話方」(一二人、六地区から二人ずつを選出)となっている。この「責任役員」以下「世話方」は、僧侶を中心にした人たちで決める。この寺院機構をもとに、年二回開催される定例総会で、各種の寄付金や布施のことなど、寺の維持方針が決定される。第二次世界大戦時下から戦後の前後には、この寺院機構を活用した僧侶と共同の「読経会」も催されており、寺院と壇家住民との連携も密であったという。
 また、善宝寺でも、大正時代から戦時中までは、悪性感冒などの流行病を防ぐため、数珠廻しや百万遍などの供養もしていた。旧暦七月十五日の盂蘭盆会には、第二次世界大戦前まで、墓地にヨシで編んだ「盆棚」を作り、それに供物などを供えていたが、現在は見られない。
 同じ町内の、浄土真宗大谷派観意寺と壇家による寺院機構は、「僧侶」、「責任役員」(二人)、「壇家惣代」(二一人)となっており、「僧侶-責任役員」はまさに執行機関であり、「責任役員-壇家惣代」の人選は、世襲も考慮した推薦制をとるという。観意寺の壇家分布は、石崎町だけでなく、銭亀沢・戸井町を含め一部は函館市街にも及んでいる。
 第二次世界大戦前から戦時中には、葬儀も自宅で営まれることが多く、特に戦没者の慰霊供養祭は、石崎町内の四か寺(妙応寺・観意寺・善宝寺・勝願寺)が共同で事に当たった。
 新湊町の黒岩には、「南無妙法蓮華経」と刻印した「岩の題目」があった。明治生まれの人の幼年期には、それが水を浴びると、題目の文字がくっきりと浮かび上がってみえたという。この黒岩の地は、道路事情がすこぶる悪く、難所としても知られ、海水が上がるので山越えして往来する所でもあった。この「岩の題目」とともに日持の霊場を祭る「法華堂」付近には、大正から昭和十年の頃に神水の涌く「涌き水」があった。それを眼を患った人や病弱の人が「薬水」として飲用し、地内はもとより椴法華村や松前町方面からも集まってきたという。それも、昭和四十一年の銭亀沢村と函館市の合併を機にした道路拡張・舗装工事のため、埋められることになった。
 黒岩の日持の霊跡を祭る供養祭は、今日に至るまで、四月十日と十月十日の年二回、三〇人から四〇人の参拝者を集め、妙応寺住職の祈祷の中でとりおこなわれている。また、六月三十日の夜から七月一日にかけて、日持の渡航の事蹟を偲んで集まった一五〇人ほどの人たちが夜を徹して「法華の太鼓」を叩いて供養に勤めるという。「日持上人の渡航祭」である。
 一方、妙応寺の旧暦一月八日におこなわれる伝統的な「鬼子母神祭」も盛んである。病気と家内安全を祈願するこの祭りは、女性中心の祭りであるが、毎年一五〇人前後の参拝者がある。信者は、本山の千葉中山法華経寺で修行を積んできた住職の霊験あらたかなる祈祷に自らの祈りを捧げる。