出稼ぎ時の衣服と持ち物

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 明治、大正、昭和にかけて鰯漁の盛んな頃は、「内地」(東北地方など)からたくさんの人が働きにきていた。大きな網元では、七、八〇人から一〇〇人くらい、小規模な網元でも二〇人くらいの人を使っていたので、この時期になると村の人口は三倍くらいにもなったという。これら内地の人たちは「旅から来た人」と呼ばれた。戦後は鰯漁が衰退しイカ漁に変わったが、これは昭和三十年頃まで続いた。
 働きにきた人たちは、漁の間中、番屋に寝りして仕事に当たっていた。番屋は真ん中に炉を切り、薪をくべて暖をとっていたが、寝るときは砂の土間にムシロを敷き、その上に各自持参の布団を敷いた。一人当たりの広さはムシロ二枚分くらいであった。布団は、行李に入れて持運びのしやすい大きさや厚さのもの(二巾の布団)で、上に掛ける物は、丹前が多かったが掛け布団を掛ける人もいた。これら布団を含めた衣類一式を「内地」からの人は、行李や布団袋に入れて持ってきたが、地元の人は大きめの風呂敷に包み、寝るときはその風呂敷を下に敷いて使った。
 仕事をする時は、古くはドンジャに股引、綿入れチャンチャンコに帆前掛けなどであったが、昭和十年代には、上衣はシャツに手編みのセーターと黄土色のナッパ服、下衣はメリヤスや手編みのズボン下に紺色のナッパズボンなどを着用した。足には手製の足袋(外側は木綿、内側はネル、底は天竺で丈夫に剌したもの)や手編みの毛糸の靴下にゴム長靴を履いた。手には軍手やゴム手をはめた。一方、銭亀沢地区の人びとも鰯の粕干しを三月いっぱいで仕上げて昆布漁までの間を出稼ぎに行った。千島行きの船は、函館の西浜岸壁から出航したが、樺太行きは小樽からの出航なので小樽まで汽車で行った。出稼ぎには、持運びしやすい大きさや厚さの寝具一式(掛け、敷き布団一組、敷布、丹前、丹前下)と二、三替わりの衣類(ドンジャ、股引、綿入れチャンチャンコ、メリヤス上下、出来合いの立ち襟シャツ、手編みセーター、手製の足袋、手編み毛糸靴下、テンガケ、テッケシ、軍手など)を厚地ズックの布団袋と小型の竹行李(四すみにズックを掛けた長さ九〇センチメートルくらいのもの)に入れ、麻紐を掛けて持ち運んでいった。函館を出航する時と帰る時に税関では、これらの荷物を開いて検査をした。
 昭和十~二十年代頃の出稼ぎ時の服装として下着には、サルマタやモッコ褌、越中褌にスムス(スムス編み白木綿地)のシャツとズボン下やラクダ色メリヤス上下や毛糸手編みのズボン下などを着用した。シャツの上は、毛糸や綿、毛糸と綿を混ぜて手編みにしたセーター類にカーキ色っぽいジャンパーなどを着た。靴下は綿糸と毛糸を混ぜて手編みにしたものなどを履いた。作業をする時は、長めのゴム長靴を履き、上から長靴がかぶるくらい長めの黒色ゴムの前掛けを掛けた。黒の前掛けや長靴は、衛生問題がうるさくなってから白いものに変わった。手には細かく剌したテンガケや軍手をはめた。これら衣類のうち、ジャンパー、下着(メリヤス上下)長靴、前掛け、軍手などは会社が支給した。

出稼ぎに行く姿・大正末頃(松田トシ提供)