尖底と平底といった、縄文時代早期前半にみられた北海道の土器文化圏の相違は、その後の縄文文化のなかでもつねにみられ、両者の境界線は時代によって多少の移動があるが、ほぼ日本海側の石狩市と太平洋側の苫小牧市を結ぶ石狩低地帯付近にあった。
石器 同じ貝殻文を持ちながら尖底と平底という異なった形態を見せる2グループの土器群は、伴う石器の組み合わせでも違いをみせる。尖底土器群に普通に見られる石器には、第9図に示した矢の先につけた石鏃(せきぞく)、槍先として使用された石槍、毛皮などに穴をあける石錐(せきすい)、切る・削るためのつまみつきナイフやスクレーパー、擦り切り手法による磨製石斧などの利器、網のおもりに使用した石錘(せきすい)、木の実などを砕いたりすりつぶすための断面が三角形の磨石(すりいし)、敲石(たたきいし)とその台となった石皿など、この時期に晩期まで続く縄文文化の定型的な石器の組み合わせが出そろう。
一方、平底土器群にはつまみのないナイフ、彫刻器、石鏃、石錘といった異なった組み合わせの石器が伴う。共通する石器が打ち欠き式の石錘で多量に出土することから、当時は漁労に対する依存度がともに大きかったことを示している。尖底土器群の遺跡から比較的多く出土し、植物加工に使用されたと推定されている石皿、断面が三角形の磨石、敲石が、平底土器群の遺跡ではきわめてまれか、伴わないことが多い。このような違いは生態系の違いを背景とした生活の違いを表したものと考えられているが、実態は不明である。
第9図 貝殻文尖底土器にともなった石器(左、函館市西股遺跡、右、函館市中野B遺跡)
宮塚義人「縄文文化黎明期の北海道」『北海道の研究1』清水堂、1984
住居 貝殻文土器に伴う住居跡のなかでは、函館市西股遺跡で発見された完全ではないが直径約3.5メートルの円形で、柱穴と炉跡がない竪穴住居跡が今のところ最も古い。内部には炉がなく、屋外で煮炊きを行っていたと考えられる。いくぶん新しい時期の函館市中野A遺跡では40軒ほどの住居跡が発掘され、ほとんどの住居跡が約8千年前頃の貝殻文尖底土器のものである。また、同市中野B遺跡ではさらに新しい約7千5百年前頃の貝殻文尖底土器から沈線文尖底土器の時期にかけた600軒を超す住居跡群と(第10図)、350を超す貯蔵穴と考えられる土壙群が発見され、定住生活が始まっていたことを物語る。
尖底土器は津軽海峡を挟んだ対岸の東北地方の影響を受けたもので、縄文時代の初めから海峡をこえた文化の交流が行われたことを示している。
第10図 函館市中野B遺跡D地区の住居跡群
『函館市中野B遺跡(Ⅲ)』第1分冊、北海道埋蔵文化財センター、1998
石錘 長軸が10センチメートル前後の扁平な礫の両端を打ち欠いただけの石器で(第11図)、重さが100グラム前後のものが多い。ゴザやムシロを編むときの錘(おもり)として使用された可能性もあるが、多量に出土することから漁網の錘と考えられている。
第11図 石錘
『尻岸内町中浜E遺跡』北海道埋蔵文化財センター、1985