5、松前藩の復領

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 1807年(文化4年)14代松前藩主章広が陸奥梁川に移封されて15年目、1821年(文政4年)12月7日、松前藩は再び蝦夷地を支配することが許された。
 
 東西蝦夷地追々上地に被仰出年来従公儀御所置被仰付候処、奥地島々迄連々御取締相整、夷人撫養、産物取捌等、万端居合、安堵の事に候。其方儀、彼地草創の家柄、数百年の所領に候得ば、旧家柄格別の儀を被思召此度松前蝦夷地一円、如前々返下旨被仰出候。
 
 前の文のお達しにあるように、公式には「幕府が蝦夷地を直轄したことによって、島全域での取締が整い、アイヌの撫養も徹底し、物産の取捌き上の問題もなくなり安定してきた。また、松前氏蝦夷地草創の家柄であり数百年の所領でもあるから、特別の配慮で復領を許可する」という理由であるが、実際には、幕府の蝦夷地経営が思惑通りに進まず困難をきたしたことや、松前藩の幕閣に対する強力な復権運動が功を奏したとも言われている。
 このようにして松前藩の復領はなり、さらに、1831年(天保2年)10月には幕府の特旨を持って、9千石の大名格から1万石の大名に復したのである。
 松前藩は復領なるや、早速、藩政の改革に乗り出した。着手した改革では知行制度あるいは人材育成など、いくつかに見るべきものはあったが、乱れていた内政改革に止まり、結局は大きな効果を得ることができなかった。
 この時代、ゴロウニン事件の解決で国際情勢の不穏な動きも一段落したとはいえ、幕府が去った後、松前藩は北辺防備のために、広大な蝦夷地の各地に台場を築き、蝦夷地全地域に11か所もの勤番所を設けるなど、警備を固めなければならず多大な出費を必要とした。なお、箱館六ケ場所では、汐首岬に台場、山越内に勤番所が設けられている。
 また、1832年、天保3年から同9年にかけての、奥羽地方一帯を襲った異常気象による飢饉(いわゆる天保の飢饉)が続き、飢民の、とりわけ南部地方からの蝦夷地への渡航が頻繁となり、藩はこれらの対策も構じなければならなかった。