[大政奉還と戊辰戦争]

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大政奉還
 “泰平のねむりをさますじゃうきせん たった四はいで夜も寝られず”(じゃうきせんは上等のお茶「上喜撰」)
 この歌は、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカの提督ペリー率いる4隻の黒船(艦隊)が日本に開国を求めるために浦賀沖に来航し、将軍宛ての大統領親書を携え交渉(開港の)を迫るペリーに、右往左往する幕府を揶揄した狂歌である。この歌のとおり、国内は、世界の情勢を直視する開国論、幕府の祖法鎖国を守る保守派・尊皇攘夷論が入り乱れ、収拾がつかないまま条約を締結する。そして、ペリー来航を契機に260年以上も続いた幕政の疲弊が一気に吹き出し、政局は王政復古の思想・倒幕へと動き始める。そんな時、14代将軍家茂の世継ぎをめぐり幕閣が対立、過去、一度も将軍職を出していない徳川御三家のひとつ水戸家の藩主徳川斉昭第7子、一橋慶喜が徳川本家を継ぎ、1866年(慶応2年12月5日)将軍の座に就く。
 15代将軍となった慶喜は、早速、西洋に見習って幕政の改革に着手する。この前年(慶応1年9月)第2次長州征伐で幕府軍を打ち破り倒幕に意気上がる長州藩も、幕府の長州征伐に反対であった大名たちも、慶喜の幕政改革や長州征伐の中止で、倒幕の狙いに戸惑いをみせるが、この年の12月25日、幕府寄りで公武合体論者でもあった孝明天皇の突然の死去(倒幕派の毒殺説がある)により、王政復古の機運が一気に高まり、朝廷(明治天皇・岩倉具視ら)は長州藩と薩摩藩に倒幕の密約をくだす。公議政体論(幕政の公開性)をもって、なんとか幕政を維持しようとしていた土佐藩(山内容堂)・越前藩(松平慶永)らもこの機におよび意を決し、将軍慶喜に政治の実権を朝廷に返すように進言する。
 慶喜は、山内容堂・松平慶永らの進言を聞き入れ1867年(慶応3年10月14日)、政権を朝廷に返還する。これを『大政奉還』という。15代将軍徳川慶喜、在位1年足らずにして最後の将軍となり、264年も続いた江戸時代に終わりを告げる。
 そして、同年12月9日「王政復古令」により維新政府(明治政府)が成立する。
 政権は朝廷に返ったものの、尾張・越前・土佐を中心する大方の藩(公議政体派)は、実際の政治は列藩会議などによる新しい政治体制を構想していた。しかし、大久保利通・岩倉具視ら公卿の一部と薩摩・長州藩を中心とした武力倒幕派は、明治天皇出席の小御所会議を招集し、天皇親政の中央政府、天皇の下に総裁・議定・参与の3職をおく中央集権政府設立の方針を発表したのである。これは徳川氏・幕府の隠然たる権威や武力を警戒し政権からの完全排除を計るためのものであり、徳川家の辞官(公職追放)・納地(領地没収)をも決定し、王政復古のクーデターを完全に成功させたのである。
 しかし、これは、一見、無血クーデターではあるが、実は見せ掛けで、武力倒幕派は、徳川氏・幕府の反発を誘い軍を上げさせる、そして、その時には、朝廷・政府に刃をむける賊軍として武力討伐し、政治の上から幕府・徳川色を払拭する、という筋書きができていたとの説が有力である。
 
鳥羽・伏見の戦い
 慶応3年12月25日、武力倒幕派の横行に業を煮やした幕府が、江戸の薩摩藩邸を襲撃したことに端を発した戦いである。大阪城の徳川慶喜は朝廷へ「討薩表」薩摩藩罪状書を提出し、慶応4年1月3日(明治に改元9月)、自ら出陣、大阪城の幕府軍兵士・桑名藩・会津藩兵士を率いて、鳥羽、伏見街道で薩摩・長州藩の兵と戦火を交えるが、幕府軍は完全に敗れ、慶喜は大阪城を脱出、幕艦開陽で江戸城へ逃れる。
 鳥羽伏見の戦いが薩長側の勝利に終わったことは、朝廷内の勢力関係を大きく変えてしまう。これまでの公議政体派の勢力はたちまち見る影もなくなり、時を移さず、総裁有栖川宮熾仁(たるひと)親王は1月7日夜、小御所に諸候を招集し慶喜追討を命じ、10日には慶喜追討令が公布される。同時に旧幕府領を直轄領とし召し上げ、さらには、王政復古の勅書を諸外国にも公布する。これら迅速な動きを眺めた西国の大名らはたちまち新政府に従い、大阪を中心とする大商人・大地主等も足並みを揃える。新政府は経済の中心地大阪を政治的・軍事的に押さえ軍資金の確保を計る。財政担当の参与、越前藩士由利公正(三岡八郎)は慶喜追討軍の費用300万両の調達を命じられ、幕府の御用商人三井(後の政商三井財閥)、鴻池ら大商人たちに金を出させたといわれている。
 
江戸城の明け渡し
 朝廷は、慶喜追討の体制が整うと有栖川宮熾仁(たるひと)親王を大将軍に任じ、薩摩・長州・土佐藩を中心に22藩の兵による新政府軍を編成し、江戸城をめざし進軍を開始させた。東海・東山・北陸の3道から江戸をめざし進軍する新政府軍に、藩に押さえられていた倒幕派の武士や地主たち、百姓らの草莽(そうもう)層までもが「菊(天皇)は栄える葵(徳川)は枯れる」の合い言葉に、新時代の到来をはっきりと感じとり新政府軍(官軍)のもとに駆けつけた。この波紋は、九州・近畿・東海・北陸、東北地方にまでも広がっていた。そして、慶応(明治に改元9月)4年3月15日、新政府軍は江戸城攻撃の日と決定し、品川・板橋に集結していた。
 一方、徳川方は、主戦論も強行であったが、恭順の意を表明する慶喜や首脳部の「これ以上国内での争いはすべきでない」との意見をとり、輪王寺宮や静寛宮(和宮)にとりなしを頼んでいた。これに対する新政府軍側も、内乱が長く続くことによる列強の内政干渉の恐れや、大規模な百姓一揆の動きを感じとり、結局、勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が話し合い、4月11日、江戸城明け渡しが平和裡のうちに行われた。
 
彰義隊と白虎隊
 江戸城明け渡し後、これを潔しとしない旧幕士や徳川支持の諸藩の武士たちが、ぞくぞくと集まり江戸市中や関東の各地で反政府の戦闘を開始した。中でも、慶喜の護衛を名目に2千人あるいは3千人とも号した武士集団が「彰義隊」を名乗り、上野の山に立て籠もり、江戸市中・関東一円で新政府軍に果敢なゲリラ戦を挑んだ。また、新政府に帰順した請西藩主林忠崇はこの動きに呼応し、反旗を翻し勇敢にゲリラ戦をくりひろげた。さらに、旧幕府に同情する諸藩では反乱軍に密かに援助するものも現れるなど、一時は、京都の新政府の中で江戸城放棄論まで唱える有様となった。結局、朝廷が、徳川家の処遇についての越前藩主松平慶永の建白書をとりあげ、新政府は、田安家(亀之助)を徳川本家の相続人とし存続させることで、徳川方(反乱軍)の出方をみ、平静化の状況を察すると、5月15日、大村益次郎指揮のもと、ゲリラ戦の最大の根城、彰義隊に総攻撃を加えこれを1日で鎮圧する。そして、徳川家(亀之助)は駿府70万石に封じこめられた。
 これを機に抗戦は下火になったものの、なお、数か月、武士と農民のゲリラ戦は続いた。
 そして、反政府軍の戦いは東北地方へと移っていくのである。
 関東及びその周辺でゲリラ戦が繰り広げられていた5月、奥羽越列藩が反政府軍同盟を結んだ。この働き掛けをしたのは仙台藩や米沢藩である。奥羽列藩は新政府に対して謝罪恭順に奔走していたが、政府軍参謀、長州藩士世良修蔵・同、薩摩藩士大山格之助らは、密かに総攻撃の手筈を企てていて、その密書が発覚したというのが直接の理由である。列藩の藩士らは「征討軍などとは、官軍の名を借り薩長の参謀らが私怨をはらすに過ぎないものだ」と憤ったといわれている。同盟は仙台藩を盟主に据えたが、会津・庄内・長岡藩が抗戦の主力となった。反政府軍と征討軍との交戦は各地でおこなわれたが、9月の会津落城の後、急速にとり鎮められた。会津藩の少年からなる「白虎隊」が、飯盛山で会津落城を知りことごとく自刃したことは、戊辰戦争の悲話として後世に語り継がれている。また、会津城籠城は20日にも及び、城内には老幼婦女2千人を抱え、降伏の時、掲げる白旗の白木綿が全て包帯として使われていたため、婦人たちが白布の断片を縫い合わせて作ったという悲話も伝わっている。
 会津落城後、反政府軍の戦いは蝦夷地(北海道)へと移る。いわゆる箱館戦争である。
 1868年(慶応4年8月)旧幕府海軍奉行の榎本釜次郎(武揚)を首領とする反政府軍は、旧幕府の艦隊を率いて蝦夷地箱館へ脱走。五稜郭に立て籠もり新政府軍に抗戦し、蝦夷地独立を公表するが、1869年(明治2年5月)降伏。鳥羽伏見に端を発し、関東、北陸、東北、北海道まで戦火を広げ足掛け2年もの内乱に終止符を打つ。
 この一連の戦い(内戦)を明治元年(慶応4年9月に改元)の「干支の戊辰」に因み、「戊辰戦争」と呼んでいる。
 なお、箱館戦争の詳細については次項で述べることとする。