[北海道庁の設置]

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 前述、太政官大書記官金子堅太郎が明治18年7月、来道・調査し、伊藤博文に提出した『北海道三県巡視復命書』を見てみよう。
 
……未開ノ北海道ヲシテ一蹴、直チニ内地(本州)同一ノ県制下ニ立タシメタルハ明治十五年ナリ、爾後県庁ハ専ラ内地ノ制度ニ模倣スルニ汲々シ、マタ、開拓使ノ農工事業ヲ継続シタル監理局ハ、徒ニ従来ノ事務ヲ維持スルニ止マリ、両ナガラ拓地殖民ノ急務ヲ計画スルコト能(あた)ハズ。空(むな)シク日子(にっすう)ト費用トヲ費ヤシテ、其為ス所ハ相睥睨(へいげい)(一)シ相頡頏(きっこう)(二)スルニ過ギズ。之ヲ奚何(いずくん)ゾ自今(いまより)數十年ノ星霜ヲ経過スルモ、北海道開拓ノ大事業ハ決シテ期ス可カラザルナリ…(中略)…今日ノ計タル、政府ハ断然一大改革ヲ行ヒ県庁及ビ監理局ヲ廃止シ殖民局ヲ設立シ、欧米ノ殖民論ニ基キ事業ニ着手スル所ノ順序ヲ定メ、務メテ外形ノ虚飾ヲ省キ拓地殖民ノ急務ヲ実行スルニ在リ。
    (一)睥睨…睨み合い・対立する (二)頡頏…優劣を張り合う
 
 つまり、金子は、北海道開拓のためには、統一的行政機構と開拓政策の論理性・計画性が必要であると結論づけている。
 この、金子の復命書に見るまでもなく、3県1局制・諸事業の分散については、発足当初から無理であるとの批判は各方面から提起されていた。また、ちょうどこの頃、中央政府にあっても内閣制度の行政機構確立が検討され、明治18年(1885年)12月、内閣官制が公布、翌19年2月には、すでに各省官制が公布されていたのである。つまり、北海道庁の設置は、このような全国的な行政機構改革というタイミングの一環として行われたのである。
 政府はこのような状況を踏まえ、金子の『北海道三県巡視復命書』を全面的に取り入れ、ただ、殖民局の名称は井上毅(後の文相・枢密顧問官)の意見から『北海道庁』と定め、明治19年(1886年)1月26日、北海道庁の新設の布告書を、次のように発布している。
 
 北海道ハ土地荒漠、住民稀少ニシテ富庶ノ事業未ダ辺隅ニ及ブコト能ハズ、今全土ニ通ジテ、拓地殖民ノ実業ヲ挙グルガ為ニ、従前置ク所ノ各庁分治ノ制ヲ改ムルノ必要ヲ見ル。因ッテ左ノ如ク制定スル。
第一 函館・札幌・根室三県並北海道事業監理局ヲ廃シ、更ニ北海道庁ヲ置キ、全道ノ施設並集治監及屯田兵開墾授産ノ事務ヲ統理セシム。
第二 北海道庁ヲ札幌ニ、支庁ヲ函館・根室ニ置ク。
 
 この、北海道庁初代長官に任命されたのが、明治2年に東久世長官の下、開拓判官を務めた高知藩出身の司法大輔(だいふ)(次官)岩村通俊である。
 岩村は開拓判官当初函館を担当、ガルトネル事件(プロシア人R・ガルトネル箱館府と結んだ99年間の開墾地租借契約)の処理・場所請負人制度の廃止・海官所(税関)を設ける。さらに島判官失敗の後を受けて札幌本府の経営・札幌神宮の建設・御用火事によって草屋を一掃し板屋(家屋)を建て定住化を図るなど多くの業績は評価されたが、開拓長官黒田清隆と政策上対立し東京に戻る。後、西南の役には鹿児島県令を務め、会計検査院長、司法大輔に進み、北海道3県の不振を伝え聞くと、自ら上川地方に赴き現状を視察し改革意見を提出するなど、北海道への思い入れも強く、初代北海道庁長官としては打って付けの人材であった。この人事からも、政府の北海道改革・行政を重視する姿勢が窺える。併せて岩村長官を補佐する理事官・函館支庁長兼務に、元函館県令時任為基(12・28・支庁制廃止で宮崎県知事に転出)・元根室県令湯地定基らが任ぜられる。同時に、内閣には北海道の事務を取扱う主任書記官を置き、前述、北海道3県巡視し「復命書」を提出した金子堅太郎を任命した。
 明治19年(1886年)1月、北海道庁の官制は勅令により定められ、北海道庁長官は内閣総理大臣の指揮監督下に属し、事務に関することについては、各省の指揮監督を受けながら北海道に関する一切の事務を統理することとなった。
 なお、北海道庁設置当初は本庁を札幌に置き、函館・根室に支庁を置いたが、この両支庁の存在が3県と同じような結果となることを危惧し、同年12月28日には廃止されており支庁設置は、事実上機能せずに終わっている。なお、その後、国際情勢の分析等より北海道の行政機構が強化され、明治30年(1897年)には19の支庁が設けられているが、この北海道庁による行政は、明治19年(1886年)に始まり、昭和21年(1946年)まで60年間つづき、その行政機構は現在の北海道へと引き継がれている。
 
岩村の施政方針演説
 明治20年(1887年)5月、北海道庁長官岩村通俊は、全道郡区長に対して北海道庁開設の基本方針について述べている。以下、項目のみ記す。
 岩村は、初めに植民地に相応しい行政の簡素化と拓地興産充実を基本方針とする旨述べ、具体的な諸施策として、次の諸項目を掲げている。
 
 (一)行政の簡易化(函館・根室支庁の廃止)
 (二)郡区長は警察署長を兼任
  ・郡区役所には警察署を併置(郡区書記は警部補を兼務)
  ・戸長役場には警察分署を併置(戸長は分署長を兼任)
 (三)教育の簡易化
 (四)官立諸工場の払下
 (五)水産税軽減・出港税廃止
 (六)官貸金の棄捐、以上が従来の施政の修正であり、
  以下、将来施設すべき事業として
 (七)地理の測量
 (八)殖民地の選定
 (九)産鉱地の測量
 (一〇)港湾の修築・灯台の建設
 (一一)道路の開削
 (一二)手引草の編集
 (一三)農工業の奨励
 (一四)水産物製造の改良と販路の拡張
 (一五)共有山林の設置
 (一六)墓地の取締り
 (一七)馬匹の改良
 (一八)駅伝旅店の注意
 
 これらの諸施策は、開拓使によって行われてきた事業を北海道庁が精選し、政府(各省)が開発の基礎的条件を満たしているか否か確認した上で、資本の導入を図るという、北海道開発の一層の充実を図ろうとするものであった。
 
行政機構の変革
 前記、明治19年12月の勅令では、北海道庁長官は内閣総理大臣の指揮監督下に属していたが、その後、明治23年(1890年)7月の改定により、北海道庁は内務省の管轄に移り、北海道庁長官は内務大臣の指揮監督下に属するようになった。これは、内閣制度の統一性・合理化であったが、北海道庁にとっては、開拓使時代の各省と同等の行政力より低くなったばかりか、明治19年当初の内閣総理大臣の指揮監督下からみても、比較にならない行政力の低下であった。
 その後、明治24年7月の官制改革で、長官の下に、書記官・警部長・財務長・参事官が置かれ北海道庁の行政機構も、長官官房・内務部・警察部・財務部・監獄部の組織となった。このような改革・機構改正をとおし中央集権体制が強化され、北海道庁の行政力はかっての北海道開拓のために有した特権を失い、内務省下の他県同等の一地方行政体となっていくことになる。ところが、日清戦争(明治27・28年)前後から、国防上あるいは日本の国力増進などの理由から、北海道の開拓を見直そうとする動きが現れ、政府内部でもこれに対応し北海道庁の機構改正・行政力強化を図ろうとする機運が起こりつつあった。そして、明治30年(1897年)10月10日、北海道の行政機構が改正された。
 この、明治30年10月の北海道庁官制改正は、北海道の行政機構の原型をほぼ確定したものである。以下、新北海道史第4巻通説362Pより、その概要を記す。
 
 長官・事務官5(内1人勅任)・警部長・支庁長・参事官3・警視2・典獄1・技師24属以下警部・監獄書記・看守長・監獄医まで771(判任)・技手136・翻訳生2を定とし、長官官房のほか内務部・殖民部・財務部・警察部・鉄道部・土木部・監獄署の6部1署、19の支庁が置かれた。この内、殖民部は30年4月、鉄道部は29年5月に設けられた臨時北海道敷設部の業務を包含するもので、すべて新設というわけではないが、北海道庁の機構は大幅に拡張され、定員も明治24年当時に比して5割以上の増加を見た。
 同時に制定された北海道庁高等官等俸給令によれば、従来、東京・京都・大阪の3府とほぼ同等の位置に置かれたものが、1等ないし数等上位にランクされることになった。とくに、郡区役所を廃して支庁を置いたが支庁長の地位は、府県の郡長を大幅に越える地位となった。この官制改正にあたった安場長官は11月の演達で次のように述べている。
 この改正は、時勢の必要に応じて行政機関の整備充実をはかったこと、改革の主要なものとして郡区行政の改良を図ったこと、部長・支庁長の地位を進めて責務を重視・職務権限の増大をせしめたこと、そして、「夫れ部長は長官の腹心にして支庁長は長官の手足たり、部長は内に在(あり)て諸般事業の経画其監督とを掌り、支庁長は外に在(あり)て専ら事業の執行に任ず、内外相俟て振励せば庶幾(ねがわ)くは其成功を誤らざらんか」(道庁時代史料政治部第2)という。この官制改革の本旨をほぼ示している演達であるという。