〈村長・町長・助役・収入役〉

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初代村長 前田時太郎(任昭和22年4月5日~退昭和42年4月30日)
 初代民選首長の前田時太郎は、明治37年12月20日尻岸内村に生まれ尻岸内村で育つ。
 大正9年、役場吏員をめざし渡島斯民会主催の町村吏員養成講習所で学び、大正10年6月尻岸内村役場に勤務する。以降、10か年にわたり戸籍・兵事・教育・庶務等の事務を担当し、役場吏員としての職務能力・誠実さをかわれ昭和6年7月31日収入役に選出されるが、そのほとんどを戦時中の統制経済下の厳しい村財政を、斉藤・嶺・上達・井上ら歴代村長を支え職務に専念する。この間(昭和14年2月11日)、渡島自治協会長より、多年吏員を勤続し功労顕著であるとして表彰されている。その人物評に「……頭脳緻密にして事務上に対しては熱意を以て終始し、殊に村法規事務の改善を志し、着々と整理に努め吏員として範たるものあり、又温厚なる性格は同僚内は勿論村民に対しても、懇切と信義を以て臨み、愛敬せらるる処である……」と記されている。
 収入役を14年勤めた後、杉谷初代助役の後任として昭和20年3月27日、前田は助役に選出される。この時期、太平洋戦争はまさに末期的状況を呈し、熾烈を極めた戦いに日本の中枢地域は焦土と化していた。にもかかわらず、軍部は本土決戦を叫び、そして、地方では老人や年配の婦人までもが連日軍事訓練に駆り出される状況下にあった。
 郷土は直接の戦禍を免れたものの、すべての生産はストップ、交通も途絶えがち、村民の生活は破局的な状態に陥り、行政はすべての機能を「食糧確保」に費やさなければならなかった。昭和20年8月6日・9日、広島・長崎への原爆投下、そして、8月15日の終戦を告げる玉音放送に長く苦しい太平洋戦争は敗戦に帰したが、前田助役の村民の食料確保という戦いは終わらなかった。作業服を身に纏い役場職員を指揮して、食料供出奨励のため、北海道の農村地帯を東奔西走の連日であった。このような状況の中で、部下の物資配給に適正を欠く事態が発生、前田は助役としての責をとり、昭和21年6月6日、辞表を提出職を去る。
 民主国家として生れ変わった昭和22年4月5日のわが国初めての知事・村長選挙には、村民の圧倒的な推薦を受け役場吏員20有余年の豊富な経験を持つ元助役の前田が立候補、対抗馬なく無投票で当選を果たした。こうして尻岸内村民選初の首長は、若冠43歳の青年村長、前田時太郎が就任した。前田は以来5期、20年間にわたり村政を担当した。この間、昭和30年4月の選挙には上田定義もまた立候補して激しい選挙戦を繰りひろげたが、現職の強みを見せた前田が2,552票、上田定義は1,484票で圧勝。以後の首長選挙はいずれも無競争当選という結果から、前田の行政手腕に対する村民の信頼がいかに根強かったかが窺える。
 前田村長は終戦後間もない混迷期の村政を担当、財政事情が苦しい中にも、まず基幹産業である漁港施設の整備に力を注ぐ一方、新しい教育を重視、六・三制に伴う学校設備の強化に情熱を傾け昼夜を問わず努力を続ける。この間、インフレの高進から地方財政は混迷、経済9原則下の町村財政が確立されるが貧困財政のうえ公共事業費は膨張、赤字財政と人件費の高騰という予算執行上の苦しみの中にも前田は、産業・教育・文化・保健衛生・消防・観光など諸般の施設を充実していった。そして、昭和36年6月に恵山道立自然公園を実現させ、同39年11月には村民念願の町制を施行、初代尻岸内町長となる。
 昭和42年4月末、5期目の任期を終えた前田は、昭和21年から助役を務めている三好信一に後を託し引退する。
 
○昭和51年(1976)、前田時太郎氏(70歳)勲五等瑞宝章を受章する。
 「勲五等瑞宝章」は長年にわたり地方自治に貢献した人に与えられる賞である。前田氏については、広報『しりきしない』に受章者の“よこがお”として次のように記されている。
 
 前田氏は、人格円満、資性温厚にして包容力に富み、実践力、正義感が強く、かつ識見、徳望高くして公共奉仕の念に厚く、その人格、実力が認められ、昭和六年七月収入役に選任されて一四年、さらに昭和二十年三月助役を歴任し、昭和二十二年四月初の尻岸内村長選挙に住民の強い要望を担って当選する。就任後、産業基盤の造成及び教育、厚生、諸施設の整備促進に努める。昭和三十九年十一月一日には町制施行を実現し、引続き尻岸内町長として町民の生産意欲の向上、愛郷心の啓発に努め、昭和四十二年四月三十日退任まで、連続五期の当選二十年間公選首長に推され、今日の安定した町政運営の基盤を固め、住民福祉の向上と自治意識の向上に大きく貢献した。
 
2代目町長 三好信一(任昭和42年4月30日~退昭和56年5月22日)
 三好信一は、昭和8年4月臨時雇員として役場入り、その後北海道自治講習所で研修・修了後、教育・兵事・戸籍の主任を務め、昭和13年から1年間、道庁へ派遣され総務部会計課で実務を積み研修に努める。帰庁後は財務兼税務主任として財政に専念。18年には収入役代理者を命じられ、戦後の昭和21年助役に選任される。
 前田町長の後を継いだ三好信一については、まず、前田町政の助役当時の略歴に触れる。三好の助役就任は官選最後の三瓶万吉村長の時代、戦後の昭和21年10月23日、32歳の若さであった。昭和22年4月5日、民選、初の前田村長就任後も三好は引き続いて助役に選任される。以降、42年3月31日まで実に20年間、前田町政の優れた補佐役として、行政諸般の運営に見事な手腕を発揮し、戦後の民主主義にもとづく地方自治体の基礎づくりに邁進する。この間、23年農地委員会事務局長、26年固定資産評価委員、27・28年教育長、30年保護司、36年には国保病院事務長を兼任するなど、まさに東奔西走の事務執行であったと推察される。このような努力が認められ、昭和41年11月、優良町村職員として北海道知事より表彰されている。
 三好は昭和42年3月、前田退任と時を同じく5期20余年勤めた助役を退職する。
 翌4月、渡辺文作とともに村長選に立候補、互いに所信と抱負を町民に訴え選挙に臨んだが、三好の30余年にわたる尻岸内村時代からの吏員としての信頼が、町民の絶大な支持を得て2代目町長に当選する。以降、昭和56年5月22日心ならずもの辞任−5月17日(日曜日)木古内町長選挙応援中突然倒れ、22日死去享年67歳−、4期半ば14年の三好町政は前田行政の助役時代と合せて34年、文字どおり尻岸内町政の牽引車として、戦後の地方民主自治体の基盤づくりから産業振興・社会福祉・保健衛生・教育振興への諸施策、発展・充実へのレールを敷いた三好の功績は高く評価されよう。
・昭和41年11月、北海道知事より北海道社会貢献賞・自治功労表彰
・昭和52年2月、全国町村会長より自治功労賞
・同年11月藍綬褒章受章
 
○広報『しりきしない』昭和56年(1981)6月号(特集)三好町長『町葬』より
“温厚な、お人柄をしのぶ”
  尻岸内町長 故三好信一殿の葬儀に一、五〇〇人が参列
 しずかな言いだしから、音調豊かに話しかけ、町民の誰もが、信頼し親しんだ、故 三好町長の葬儀は、逝去された翌日、二十三日午前九時から開かれた町議会議員協議会において『町葬』をもって執行される運びとなりました。
 第一三回目の“恵山つつじまつり”を目前にして、ツツジの蕾もほころび、悲しいまでに穏やかな日和の二十七日、三好町長とのお別れの式は、片山渡島支庁長、道教委教育長、衆、参議院・道議会の議員の方々、地元町議会議員・日浦から御崎までの各団体の代表者、そして、葬儀委員長を務める上田助役以下職員百五十名を含む、千五百人余りの参列をいただきしめやかに執り行なわれました。
 数々の業績はもとより、全国の全道の公職・要職を務めてこられた故人への弔辞は十八……中略……中でも、町職員を代表し、三好町長就任からの補佐役として至誠を尽くした上田助役が「……町長、永い間、本当にお疲れ様でした……」と万感の思いを捧げてお別れを告げると、職員一同もまた、深く頭を垂れ目頭を押さえていました。
 
助役 上田定義(任昭和42年6月29日~退昭和56年7月25日)
 三好町長の助役に選任された上田は尻岸内役場入りが三好と同期の昭和8年である。
 上田定義は本町字大澗の出身、郷土の小学校を卒業、庁立函館中学校へ進学したが健康優れず大正15年に中退、家業に従事。昭和8年6月30日尻岸内役場書記補として奉職、庶務・教育・財務・税務などの職務を経験し、同、13年には書記に昇進する。ところが、昭和14年12月招かれて、十勝支庁中川郡西足寄町役場書記に転勤、15年には収入役代理を務め、19年6月に十勝郡大津村の助役に迎えられ、戦時下の村政に大いに活躍したが、これが災いし戦後の「勅令4号」(GHQの指令による公職追放)該当者として心ならずも退任しなければならなかった。上田は昭和22年5月、郷里尻岸内へ帰村、漁業を営んだが昭和25年には尻岸内漁業組合理事に推され、翌26年には組合長理事を務め大澗漁港早期完成の陳情活動など、漁業発展のために奔走する。
 昭和28年8月既に公職追放を解かれていた上田は、請われて尻岸内教育委員会教育長に就任、予算の乏しい時代、校舎建設、施設設備の充実・教育環境の整備を進めるとともに社会教育の振興に務める。また、当時、教育制度上の問題、勤務評定・道徳教育・学力テスト等の実施を巡り、文部省と教職員組合が激しく対立する中にあって、上田は首尾一貫、教育長としての主体性を貫きながらも、地元教職員と誠心誠意話し合い幅広い度量をもって歩み寄るなど、問題解決に大いに手腕を発揮した。
 こうした上田定義の行政手腕と人柄は、衆目の認めるところとなって、昭和42年6月29日議会は助役選任へ満場一致の同意を与える。
 尻岸内に生まれ尻岸内の行政を知り尽くし、その道一筋を貫いた三好町長。これに対し、志し半ばで学業中断、帰郷し役場吏員の道へ、それも請われて他支庁も含め延べ4町村での勤務、公職追放で辛苦を嘗め、さらには漁業・漁業協同組合理事と、波乱万丈の人生を送ってきた上田は、補佐役の助役として適任であり、町長・助役、絶妙のコンビであったと推察する。
 
収入役 伊藤浩一(任昭和20年3月30日~退昭和23年6月6日)
 伊藤が収入役に選任されたのは戦時下の昭和20年3月30日、同年3月26日収入役の前田が助役に選任され、その後任としてであり、戦中戦後を通して収入役を務めた。
 伊藤は古武井の生まれ、昭和13年現役兵として騎兵第7連隊へ入隊したが、翌14年7月病気により現役免除、帰郷養生につとめ健康回復後、16年7月尻岸内村役場に奉職する。爾来税財務事務を主管し行財政に通じ、村会において満場一致で収入役に就任した。
 伊藤就任の年、8月15日敗戦を迎え、村財政は崩壊状況のなか辛苦を嘗める。前田初代村長のもと引き続いて収入役に選任され、戦後の混迷する中で、苦しい村財政を担当し税制改正に伴う徴税体制の確立などにおおいに力を尽くしたが、不幸にして病に倒れ、昭和23年6月6日死去した。
 
収入役代理 斉藤賢三(任昭和23年3月24日~退、同7月22日)
 斉藤は、税務・財務などの激務を担当しながらも、健康に優れなかった伊藤を支え援け、戦後の所得税(国税)納税促進のための調査協力機構の発足整備に懸命の力を注いだ。
 伊藤が病床に伏してからは、収入役職務代理として後任の浜田収入役着任までその職務を全うした。
 
収入役 浜田昌幸(任昭和23年8月13日~退昭和50年2月17日)
 昭和23年8月13日、浜田昌幸が収入役に選任され伊藤収入役の後を引き継ぐ。
 浜田は字豊浦の出身、尻岸内高等小学校を終え家業に従事していたが、昭和17年8月1日から12月31日まで茂別村役場に勤める。帰郷後に尻岸内商業組合主事として、戦時経済統制下にある商工業者の指導と統制物資割当などの業務に専念する。太平洋戦争が熾烈を極めた昭和18年1月から、民間防空・函館防空監視隊大澗監視所副哨長、後哨長として哨員の教育と対空監視の任に当たる。
 昭和19年2月10日、再び上磯郡茂別村役場に書記補として奉職する。
 浜田は勧業、土木、統計、物資調達など、行政事務の全般、日夜奔走し総てを経験、戦後22年、農地改革の業務が開始されるや農地委員会書記をも兼務、農地の買収・売り渡しの業務を遂行し同村の自作農創設を成し遂げる。
 昭和23年8月13日、茂別村での経験をかわれ故郷の尻岸内村収入役に選任、直ちに前年の22年度会計の決算業務を完結するとともに会計業務の運営・合理化に専念。27年8月23日再び収入役として選任、以降、戦後の昂進するインフレーション、地方財政の赤字対策、シャープ勧告と税制改革、六三制の実施、国保事業の開始と診療施設の経営、地方自治法改正に伴う会計制度の改革など戦後20年の時の流れとともに、尻岸内町の行財政はますます堅実さを加え、躍進を続ける。
 浜田は、そんな中、「年とともに規模が拡大していく町の行財政は、今後一段と(その執行制度に)科学性と合理性が要求されるであろう」との予見をし、収入役という制度の使命と責任・重さについて検討を要すると述べている。
 浜田の収入役としての知見と優れた手腕・実行力は誰もが認めるところである。また、一方、浜田は郷土史家として著名な存在でもあった。収入役としての多忙な日々の中、恵山地方史研究会を主宰して渡島東部の歴史をコツコツと掘り起こし、33年6月には、“中央の政治に連なる尻岸内という地方の1町村の行政と、その基にある孜々営々として生業にいそしんできた庶民の生活を捉えて行くならば、そこには尻岸内町将来に貢献し得る教訓を見出だすことができる”との強い信念のもと、町史編纂の資料収集・調査に、本格的に取り掛かかった。
・昭和41年4月、前田町長は浜田に町史編纂を正式に依頼、5月9日尻岸内町史編纂委員会発足、43年5月5日執筆作業終了、45年9月1日尻岸内町史発刊。この間、浜田は収入役の職務を滞ることなく、町史編纂に東奔西走の日々を送った。
・昭和50年2月17日、収入役退職、この年の統一地方選挙・町長選挙に出馬する。(昭和50年4月地方統一選挙結果 三好信一当選 2,362票 斉藤賢三 1,169票 浜田昌幸 892票)
 
収入役 野呂桂司(任昭和50年7月1日~退昭和55年7月31日)
 27年間収入役を勤め、会計制度の生き字引といわれた浜田昌幸の後を継いで、三好町政3期目の、収入役に選任されたのは野呂桂司経済部長である。
 野呂は昭和5年字大澗の生まれ、昭和20年3月戦争の末期、尻岸内国民学校高等科を卒業(この年の4月から国民学校尋常科〈現小学校〉以外の学校は全て学業停止し、各種学校の生徒は全員、軍事工場か援農−人手不足の農家で農作業に従事する−へ駆り出されることになった)、幸い4月1日付で尻岸内漁業組合に就職、6年間余り経験を積んだ後、昭和26年7月1日、尻岸内村役場事務吏員として採用される。30年3月には道立自治講習所を修了、以降、総務課庶務・観光・消防係長、国保病院事務長、庶務課長兼企画課長を歴任し41年7月5日、35歳の若さで一般職のトップ経済部長に就任する。
 野呂が経済部長在職の41年から50年代は人口も1万人台から減少しつつも、戸数は増加傾向をみせ、町予算の伸びは右肩上がりを続け町勢は充実の時期を迎えていた。そんな時期であり、野呂の収入役には期待感が大きかったが2期目、上遠野教育長の突然の死去で教育長に就任する。熟練の上田助役と新進気鋭の野呂収入役、三好町政3期目は最も充実した時期ともいわれている。