昭和30年の第8回国勢調査により、尻岸内村の人口は1万人(10,205)を超え、さらに増加傾向にあった。この頃から「町制施行を」という声が公的な場、催しなどでも再三再四、聞かれるようになってきた。古老の人々は、明治から“おらが村は郷社八幡神社を擁する下海岸随一の村”という自負心が強く、また、昭和27年新生活建設モデル村に指定されて以来、種々レベルの村振興計画を通して、新しい漁村尻岸内づくりを実践している住民にとって、町制施行は1つの到達点でもあった。
町としての要件に関する条例(昭和二十三年三月十七日北海道条例第一〇号)より
①人口五千人以上であること。
②中心街形成の戸数が七百以上であること。
③②の戸数の六割以上が商工業その他都市的業態に従事する者とその家族であること。
④交通機関・官公署・金融機関・会社などが道内の他の町に比して遜色がないこと。
⑤病院・診療所等の衛生施設及び公民館・劇場・映画館などの文化施設があること。
⑥住民の税負担・村の財政状況が道内の他の町に比して概ね遜色がないこと。
⑦③の人口が最近五か年増加傾向にあり且つ将来も町としての発展が認められること。
尻岸内村の(当時の)現況を概観するに、人口は既に1万人有余を擁し、戸数千600余り下海岸第1位の規模である。産業は古くから拓けた恵山魚田を有する漁業生産を中心に、水産加工・各種商工業・造船業などは盛業をみせ、また、硫黄、砂鉄の鉱山が操業に、硫化鉄など有望な地下資源の開発も期待できる。特に砂鉄鉱は豊富な埋蔵量で東洋一と謳われるベルトコンベアー式積出桟橋の施設を有し室蘭等への移出に活気を帯びている。
さらに、昭和36年道立自然公園に指定された活火山恵山へは、四季の美観を探勝する観光客が年々増加、現時点で10万人を越えている。
公共施設については村も力を注ぎ、近代医療施設を持った国保病院を完成させ、近隣町村の患者の診療にも当たっている。懸案の簡易水道施設は全村にいきわたり、衛生面での充実は着実に進んでいる。教育についても児童生徒の増加に合せ近代的な校舎建築の校舎の完成など教育環境は年々向上している。
村議会は、これらの村の実態と「町としての要件に関する条例」を照らし、尻岸内村が町としての要件を十分に満たしていると判断し、昭和37年7月27日、町制施行申請の手続きをとる旨渡島支庁長へ報告、渡島支庁・道庁より早速係員が来村、要件の具備が確認された。
議会の決議と陳情 昭和39年5月27日第2回定例村議会で町制施行申請を可決、翌々日村長前田時太郎、議長吉田亀蔵は道議会議員佐々木豊、樋口哲男、池田金助、岡田義雄、遠藤英吉を紹介議員として道議会議長及び総務常任委員会にこれを陳情した。
尻岸内村の道議会への町制施行申請について北海道新聞は次のように報道している。
○昭和39年(1964)8月20日付 『北海道新聞』
“尻岸内町”実現近し 条件そろい九月道議会に提案へ
道南の海の宝庫「恵山魚田」と「道立恵山自然公園」をかかえる尻岸内村は、発展一途の町勢から町制を施行することになり、道に町制施行の申請を提出している。
尻岸内村の産業は漁業中心だが恵山魚田をかかえるだけに、年間水揚げは五億円を越え、渡島管内では南茅部町と並んで経済力のある村。財政規模は一億四千万円だが、町村税の納入成績は九五%台という好成績、それに、道立恵山自然公園に観光ホテルの建設が持ち上がるなど、村勢は発展の一途の見透しから町制施行に踏み切ることになった。……中略…… 八月上旬、道地方課の係員が現地調査したが、条件がよく道としては九月の道議会に提案する予定。正式に道議会に提案されれば道議会総務常任委員会が現地調査を行い町制施行の可否の結論が出される。
道議会の現地調査 昭和39年10月1日、道議会総務常任委員会の谷口委員、開発委員会の佐々木委員の一行が事務局員を帯同して来村。まず大澗漁港−市街地−日鉄砂鉄積出桟橋−役場庁舎−山背泊漁港−恵山山頂の順で視察の後、新装なった庁舎で前田村長から「村民挙げて町制の施行を熱望している」という陳情に委員の一行は、いちいち微笑をもって頷き、快くその陳情を受けて帰路についた。
道議会の決定 昭和39年10月13日午後、道議会の本会議において、尻岸内の町制施行は他の3村(仁木・豊頃・山部)と共に異議なく可決され、ここに尻岸内の町制施行の宿願は達せられたのである。
自治省の告示 尻岸内村の町制施行は、昭和39年11月2日自治省告示となった。
自治省告示 第百三十五号
地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第八条第三項の規定により、北海道亀田郡尻岸内村を尻岸内町とする旨、北海道知事から届け出があった。
右処分は昭和三十九年十一月一日から効力を生ずるものとする。
昭和三十九年十一月二日 自治大臣 吉武恵市