[戦後の漁業]

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 戦前、北海道で漁業の操業ができる沿岸は1,360里と言われてきたが、終戦とともに千島や歯舞諸島を失い本道の周囲のみの730里と5割余りに狭められ、さらにマッカーサーライン(占領下における日本漁業操業区域の限界線)により広大な北方漁場も失い、本道の水産業は大打撃を被った。
 のみならず、戦時中の乱獲、船舶・施設設備の不備、資材不足等による生産額が激減する最中(さなか)、樺太(サハリン)や色丹、国後択捉島などから引揚げてきた4万を超える漁業者を抱えることとなり、本道の水産業は苦難の道を強いられた。
 道南地方は古くから豊富な海の幸に恵まれ、春のニシン・イワシ、夏のコンブ、夏から秋はイカ、冬のタラなど東北・北陸地方の漁民の入稼・移住地として漁村を形成してきたが、その生産性に比し潜在的に過剰労働力を抱えるといった状況も生まれてきた。郷土尻岸内も例外ではなかった。イワシの回游が途絶えニシンの回帰が北上するとともに、これらの漁師は、日本海西海岸や樺太の鰊漁場へ出稼ぎし、コンブ採取やイカ釣りの漁期には帰村し、漁をするという二重の生活を送るようになった。これら出稼者の中には正月以外は帰村せず、収入のよい沿海州やカムチャツカ(ソ連領土)の鮭マス・カニの漁業に従事する、いわば出稼専業者も現れ、彼等にとって村は「出稼母村」と化した。
 終戦とともにこれらの人々は出稼漁場と労働力市場を失い、否応なしに地元の海で生きていかなければならなくなった。村は、それだけ過剰漁民を抱えたということである。
 戦後わが国が直面したのが、先ず“飢え”であった。政府は当面する食料難をきりぬけるため経済統制を行った。その1つとして漁獲物の価格保護を実施した。
 幸いなことに、この当時、津軽海峡には毎年イカの大回游があり、前浜は連日の豊漁にわき、尻岸内村も未曽有の好況を呈した。この大漁は道南の食料難の一助にもなった。