古武井硫黄鉱山の発見について 明治37年1月の殖民公報第18號(北海道廰)

868 ~ 870 / 1483ページ
 礦業の部・明治24年3月28日出版の北海道廰第2地理課『北海道鑛床調査報文』によれば(いわゆる公のもの)、硫黄の発見については、右記のように記録されている。
 だが、地元の言い伝えでは、古武井の住人、樵夫の山野千松であるとされている。この事について、明治45年、函館商船学校の町田久敬(峯水)という人が、函館毎日新聞に連載した『古武井紀行記』の中に触れているので要約してみる。
 
『……この古武井の三井鉱山を発見した話しはなかなか聞くに価値があると思う。その発見者は古武井村の人で、山野千松と言う船大工で、元治元年(1864)にそれを報告した。ある日のこと船大工は自分の商売に必要なる舵(かじ)の原料を求めんとて、該山に出かけた。…中略… 四月といっても旧暦、船大工、余りの寒さに耐え兼ねて枯れ木を集め岩上で燃やすと、硫黄の毒煙紛々として発煙し、到底身体を温むる余地を有せざらしめ、直ちに帰村し、これを村民に報告したところ、同村で有名なる善兵衛と言う人が総代となり、これを函館の資産家石川小十郎と言う人に謀り、同氏の投資により開坑に着手、爾(じ)後幾多の人の手に帰し、これを押野の手に帰したのは、明治三五年四月、また、三井の手に帰したのが、明治四四年一二月。…中略… それで、この船大工は、油絵想像画として三井鉱山事務所に掲げられてあるが、頭の禿げた大和船の船頭らしき顔つきをして居る。之(これ)は何よりの見ておくべき記念物であると思う。それで、該山(鉱山)の寿命ある限り発見者山野の遺族には(鉱山から)毎月米二俵といくばくかの金円を供与している。而(しこう)して、その子息は唯今該山(三井鉱山)で使役しているが実に結構な至りである。』
 
 山野家は、字日ノ浜に現存し子孫も健在であり、この事を認識している。また、床の間には『山野千松』だという写真を掲げているが、この写真は肖像画を写真としたものであり、三井鉱山の事務所に存在していた油絵・肖像画の写しとも推測できる。
 なお、孫兵衛についての資料は見当たらない。
 
慶応元年~明治元年(1865~1868) 旧山
 古武井の総代(福澤)善次郎の名義で箱館の商人石川小十郎が資金をだし、山の上町、貴田立本が旧山の採掘をする。
 4年間(明治元年まで)採掘し2千900石を生産(原鉱か)箱館で販売する。
明治2年(1869)新山の発見
 古武井村の住人(名前の記録なし)新山で鉱床を発見する。
明治7年~明治12年(1874~1879)旧山
 函館の実業家、泉藤兵衛が鉱区権を入手する。
 元山で硫黄採掘着手するが明治12年7月に廃業する。
 泉藤兵衛は明治8年から5年間恵山硫黄鉱山にも相当の資本をかけ操業したが採算が取れず中止している。
明治15年(1882) 新山
 函館大町の山本巳之助鉱区権を設定、試掘の後廃業する。
明治21~明治27年(1888~1894) 新山・旧山
 東京本所区の富岡海蔵・福井県越前の山田忠太郎、泉藤兵衛等から借区し旧山と新山で採掘をする。
 明治29年、福井県福井市の山田慎に譲渡する。
 
古武井硫黄鉱山の開発について
 古武井硫黄鉱山の開発は必ずしも順調には進まなかった。それは、鉱石が沈殿鉱であるため、見慣れた昇華硫黄と余りにも外形が違っており買い手がなかなかつかなかったと言われている。今一つは、海岸からの距離や、川岸の急峻な地形が1つのネックとなっていて、小規模な採掘ならばともかく、埋蔵量も不確かであり、資本投入に対する採算面での懸念があったためと推測される。
 この鉱山に本格的な開発の手が入るようになったきっかけは、ライマンが開拓使次官黒田清隆に提出した報文にあると推測される。ライマンは、開拓使最高顧問として招かれたホーレス・ケプロンのもとで地質調査や鉱山測量を行った技師で、明治5年(1872)から6年(1873)にかけて道内各地を巡り調査し報告をしている。
 この報文の中に、古武井の硫黄の性質・鉱床・埋蔵量について有望である旨の所見が見られる。これが、中央の資本を呼び本格的な操業のきっかけになったのではないか。と推測される。なおライマンの報文の詳細については後述する。
 
明治34年(1901)
 函館の事業家、山縣勇三郎、元山に鉱区権を設定『古武井硫黄鉱山』と称し本格的に操業を始める。
明治35年(1902)
 横浜の事業家、押野常松・押野貞次郎、旧山に鉱区権を設定『押野鉱山』と称し本格的に操業を始める。
 海岸までの道路の掘削・軽便鉄道の敷設、精煉所の設置、新鉱をひらき露天掘を始めるなど道内有数の硫黄鉱山の様相を呈してくる。
明治37年~38年(1904~1905)
 日露戦争(明治37年2月10日~同38年3月、9月講和成立)
 戦争による特需で硫黄価格が高騰し鉱山は盛況を呈する。
明治37年(1906)
 4月、中小屋・元山に古武井小学校特別教授場開設される。
明治38年(1905)
 横浜の事業家、朝田又七、押野常松より鉱区を譲り受け『朝田鉱山』と称し事業を継続する。
明治41年(1908)
 3月8日、朝田鉱山、旧山・双股の2か所で大雪崩が発生死者2名。同時に火災も起き死者男11名女18名の計29名を出す大惨事となる。
明治41年(1908)
 11月、朝田鉱山から鉱区権、押野貞次郎・押野彊(きょう)に移り再び『押野鉱山』と名称が変わり事業を継続する。
 『古武井硫黄鉱山』も山縣勇三郎から、同族会社の釧勝興業株式会社・中村太郎等に事業が引き継がれる。
 同年、山縣勇三郎一族を引き連れてブラジルへ移民する。(大正13年3月9日、志し半ばにして死去、享年65歳)
明治42年(1909)
 精煉用薪材運搬のため古武井川(青盤(あおばん))と尻岸内川(荒砥(あらと))(通称鉄索(てっさく)の沢)間に、約1哩(1.6キロメートル)の玉村式単線鉄索(てっさく)を架設する。原動力は15馬力の『コルニッシュ汽罐』・同じく15馬力 の『アトラスエンジン』を用いる。
 また、通信設備として上記、青盤・荒砥間と、山元・古武井浜間、約6哩(9.7キロメートル)に特設電話を架設する。
明治44年(1911)
 明治44年12月・同45年1月、三井鉱山株式会社、押野鉱山と古武井硫黄鉱山(山縣)を買収する。
 『三井古武井鉱山』と呼称し、押野・山縣の事業をそのまま引継ぎ操業をする。
大正6年(1917)
 11月、全鉱区で硫黄採掘を停止する。
 アメリカにおいて硫黄の画期的な採掘法、フラッシュ法(後述)が開発され、メキシコ湾岸を中心に大々的な硫黄採掘が行われる。
 わが国の硫黄の輸出に影響を及ぼす。
大正7年(1918)
 3月、三井鉱山株式会社『三井古武井鉱山』を廃山とする。
昭和24年(1949)
 朝日硫黄株式会社、大梶鉱山硫黄生産に着手するが、収支償わず、昭和28年には閉山する。
 
 古武井硫黄鉱山の操業については『資本の投入・規模等』から、明治34年以前と以後に分け記述することとする。