交通・通信・物資の運搬

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 古武井鉱山の盛況は、勿論、莫大な硫黄の埋蔵量にあるが、『軽便鉄道や架空索道(かくうさくどう)など』の交通・運輸の設備投資も大きな要因である。
 
<軽便鉄道>  押野・山縣共同施設として古武井川に沿い敷設、年々延長し三井鉱山が事業を引き継いだ明治44年には、選鉱場(元山)・精煉場・古武井海岸倉庫まで、一部複線箇所を含むのべ延長7哩(マイル)30鎖(チェーン)、約12キロメートルを敷設していた。線路の規格は12ポンドで、鉱石約880から986㎏積み(製品14叺(かます)、約1トン)の台車を2両連結して馬に挽かせた。馬は外国種(ペルシュロンなどの)か、かなり大型のものであったらしい。
 この軽便鉄道は、選鉱場より鉱石を精煉場へ、さらに精煉場からは海岸倉庫まで硫黄製品を運搬し、帰りは函館などから送られて来た物資や人を運んだ。また、往復の運行が円滑に行われるよう青盤(精煉場)付近を複線化(複線、地名となって残っている)とした。
 軽便鉄道沿線には、選鉱場・精煉場はもとより、鉱山の付属施設である診療所や職員の住宅、分教場、商店街などが設けられ結構な賑わいを見せたが、長坂と呼ばれた旧斜面では台車の制御(ブレーキ)がきかず、暴走して相当数の馬が死んだり、命を失った工夫(こうふ)も少なくない。
 
<人力鉄道・トロッコ>  トロッコの総延長は押野・山縣鉱山合わせて5哩、約8キロメートルにも及ぶ。線路の規格は12ポンド(一部は9ポンドを使用)馬車の乗り入れも可能となっていた。1人押し用台車の積載量は450キログラム~600キログラムで、露天掘りの現場は、馬挽きの関係上880キログラム積みの台車を2人で操作していた。
 
<海上輸送>  馬車鉄道で運搬された製品は海岸倉庫(現在の古武井漁業協同組合付近)に一時保管され、定期的に運航してくる運搬船により函館へ運ばれ、外国へ輸出されたり国内の各港に運ばれたりしていた。運搬船は大型船であり沖へ停し、硫黄製品や物資の積み下ろしは専ら艀(はしけ)によって行われた。
 古武井硫黄鉱山の生産高の詳細は後述するが、押野・山縣両鉱山合わせて、明治40年と41年1万5千トン余り、42年2万トン、明治43年には鉱山記録の23,049トンさらに大正2年まで1万トン以上をキープ、大正3年から7年閉山までも、9千、8千、6千トンと莫大な生産高を上げていた。したがって、この製品の海上輸送については、押野汽船所属『礦運丸(こううんまる)』等専用運搬船が函館、古武井間を運航していた。
 この『礦運丸』は130トンの汽船で、重量のある硫黄製品の積み込みをスムースに行うために、船腹にハッチ(艙口(そうこう))を設けるなど改良を加えていた。通常、函館を午前3時に出港し海上27海里(50キロメートル)を4時間足らずで運航し、朝7時頃古武井へ到着、積荷を陸揚げ、硫黄を積み込み、折り返し函館港へ戻る定期便である。礦運丸の他にも60トン程の定期船が運航していたが所要時間は5時間ほどかかった。因みに、礦運丸の乗船料金は当時(明治45年3月)片道70銭であった。
 近くに函館という大都会・貿易港を控え、専用定期航路が設置され、船便が頻繁に通い、製品の輸送は勿論のこと、必要な資材・物資も容易に入手できたことが、古武井硫黄鉱山盛況の1つの要因であったことは確かである。
 
<架空索道>  玉村式架空索道、女那川尻岸内川)河口からおよそ4キロメートル上流の川岸にある荒砥(あらと)部落から、古武井川青盤精煉所まで、通称鉄索(てっさく)の沢をとおり尾根を横切り、いわゆるケーブルが設置されていた。これは、通称鉄索(てっさく)と呼ばれ、尻岸内川の流域の豊富な森林から、荒砥(あらと)部落の樵夫が切り出す薪材を運搬するための施設で、延長1809メートル、支柱は木材で作られ、原動力は、コルニッシュ式汽罐15馬力1基、アトラス式汽罐15馬力1基の2台を使用した。なお、コルニッシュ式・アトラス式ともに蒸気機関であり、コルニッシュボイラーは丸型ボイラー、炉筒が1本の単純な構造で当時の新鋭型でもある。