〈徒歩で函館へ〉

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 この話は、平成9年(1997)に、字恵山にお住まいの山田きせさんからお聞きした話である。山田さんは明治41年(1908)尻岸内村の生まれである。
 
 今からもう60年以上も前の話なんですよ。
 私がまだ、20歳(はたち)すぎてまもなくの頃のお話しなんです。函館の街でお祭りがあると聞き、どうしても見物したくなってね、仲良しの女友達2人と連れだって出かけたんです。その時、私はもうお嫁に行っていまして、子供も1人おりました。と言ってもまだ赤ん坊の。その赤ん坊をおんぶして、おむつを持って、へそくり5円を懐にしっかりしまって…。
 函館まで片道12里(約47キロ)、往きも帰りも歩いて行ったんです。
 夏、確か7月だったと思うけど……出発したのは早朝3時頃だった。
 恵山からは船便があったし、戸井まで行けば自動車もあったらしいけど、お金は相当かかるし、函館まで歩くのは、それほど珍しくはなかったのです。
 その頃は、大人の足で1里1時間と言われていたけど、女の足でしょう、それに、赤ん坊をおんぶしているんだもの、履物は草鞋だし……随分(時間が)かかったね。
 途中、運わるく原木でにわか雨に遭い、雨宿りをしながら赤ん坊におっぱいをやり、雨が上がってから、小川でおむつを洗濯したり、戸井では知り合いの家で、1時間程休ませてもらい、函館の湯の川に着いたのは夕方の4時頃だったと思う。
 道は悪かったね。恵山、古武井の辺りはまあまあだけど、おっつけでは鼻コグリ(註)と呼んでいる坂をおり、磯伝いの道を歩いたの。あそこは時化(しけ)ている時は波にさらわれてしまうことだってあるし、とても危なかったんですよ。豊浦から日浦までは山道(日浦峠)、日浦から原木までも山道(日浦峠)だった。戸井からの道はよかったけど、函館山が見えてからが遠くてねえ……。函館のお祭りは賑やかだった、けど、私は都会はそれほど好きだとは思わなかった。
 親戚の家に1晩めてもらい、しまっていった5円は結局1銭も使わずじまいで……次の日、帰って来た。
 帰りは、瀬田来(せたらい)のイワシ漁場(ぎょば)へ帰るおじいさんと連れだって来たの。男の人が一緒だと何かと安心だしね、その頃は知らない同志でも、道連れになって話しながら歩いたものです。途中、戸井でゆっくりとお弁当も食べました。
 私は若い時、何度か函館に行かせてもらったけど、私より少し若い年配の人達でも、恵山に生まれ恵山で嫁になり、函館を知らないで(行かないで)、一生送った人が何人もおりますよ。
 
 信じられない話である。が、現在(いま)から僅か6、70年前、郷土の人々は、このようにごく日常的に自分の足で、函館と自分の村とを往来(いきき)していたのである。
 道南地方はよく北海道の先発後進地域と言われてきた。なかんずく、下海岸一帯・陰海岸はまさにその通りである。さまざま要因はあろうが、道路・交通機関の整備の遅れが特筆されよう。難所であった区域にトンネルやバイパスが開通し、交通状況が相当改善された昨今でも“下海岸は道路の悪いところ、不便なところ”のイメージが払拭しきれていない。事実、早急に整備しなければならない道路も少なくない。特に自然災害を想定しての対応も必要である。郷土・下海岸一帯は、都市部に近く冬季間の気候が極めて穏やかな地域である。豊富な水産資源を始め、先史と歴史、自然と温泉など観光資源にも恵まれている。さらなる道路・交通の充実により水産業はもちろん、リゾート地としての発展も期待されよう。