この道路行政について、初代箱館奉行(幕府遠国奉行として1802年5月設置、1807年の全島上知以降は松前奉行と改称す)の、羽太正養はその公務記録の、『休明光記録』(巻之一)に、次のように記している。
蝦夷の地は儘く嶮阻にして通路自在ならず、所としては人蹟絶え其海岸掻送り舟をもって、漸々に通路をなすといえども、風順よからざれば舟行の道をたち、徒(いたずら)に風を待ち日を送る。かくては事のあらん時 急を告るに妨あり、亦常に往来の煩(わずら)ひなれば、ことごとく道を開いて通路をつけ往来の煩(はん)なからしめ、又数里の間旅宿なければ、旅行のもの野宿の労にたえず、前にいう所の官舎(会所のこと)を建て旅宿とせん。
先是等の数事を、さしあたる所の急務として手を下さる。