道路が整備されるとともに、経済活動は活発化し併せて行政機関の充実も計られ、それに伴い交通・情報の速度と輸送量のアップも要求されてくる。そのために設けられたのが、駅逓制度である。この制度は、人・荷物の輸送、書状(官用・私用)の送達を業務とし、そのための、人足・馬・宿泊設備(荷物置場も含め)・輸送舟(渡し舟)等の準備をする制度である。
蝦夷地における駅逓のはじまりは、1700年代の後半、前松前藩時代の終わりころ、松前藩の役人らと、知行地の場所請負人らとの書状・荷物(産物や献上物など)の取り扱いが主なもので、場所請負人により(民営として)便宜的に行われたと考えられる。
寛政11年(1799年)北辺警備を重点課題とした幕府は、松前藩領地であった知内以東の東蝦夷地を直轄(前期幕府直轄)後、道路開削・官船の建設等、陸海の交通の整備・充実の一環として、駅逓の制度を整えていった。すなわち、前松前時代に漁業経営の拠点であった運上屋を、会所と改め行政機関としての権力を強め、漁業経営を支配下に置くとともに、場所請負人の便宜的な業務であった駅逓も、会所の仕事・官営とした。
地域によって多少異なるが、主な業務として『官用書状の継立・官用旅行人の宿泊・人馬および船の継立など、急用時の早馬・早走・早船の手配、その他、蝦夷人の介抱など』を行った。