2、人馬賃銭と宿料

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 馬の頭数は漁業の発展とともにその数を増やしていたが、安政元年(1854年)の調査では、東・西蝦夷地各場所で駅逓用立の常備馬頭数は200頭余、さらに用立560頭余りは確保しており、飼育されている馬の総計1,800頭余りを数えている。
 前期幕領時代、人手不足のなか負担を強いられていた人馬賃銭も、安政2年(1855)には、人夫賃を5割増しとし、同5年(1858)には、荷物貫目を定め、『人足一人に付き五貫目・馬一頭に付き二〇貫目』それを超過する場合は賃金の割増をさせた。また、村々の人口も次第に増加し、馬引きなど人夫も専業化の傾向が見られるようになった。
 宿料については和人地蝦夷地、別料金となっており、定めでは実費を賄いきれない状況にあったが、これも次第に値上げされていった。
 和人地の大野村・鷲の木村・落部村の場合、従来『一食に付、銭一〇〇文』であったが、米価高騰により、大野村は安政4年(1857)12月から銭170文に値上げし、鷲の木村も安政5年(1858)5月から同じく銭170文に値上げ、『万延元年(1860)には、この三村とも一食一二五文、三食三七五文』に定められた。但し、官吏は1日3食、上300文・中200文・下167文と定められていた。
 蝦夷地では前幕領時代から、幕吏はその持場内は3食55文、持場外は3食77文、諸藩の警衛の士は3食155文で、食事はすべて1汁1菜と定められていたが、この宿料では実費を賄うことができなかった。そこで安政5年(1858)には、山越内(村並)・長万部・室蘭・幌別の4つの場所は料金を和人地並としている。また万延元年(1860)には、諸藩の給地が相交じり、宿料もまちまちになる恐れがでたので、箱館奉行はこれを一律とし、『諸藩の給地を通行する幕吏、ならびに在住・幕府直轄地を通行する諸藩の士卒は、一上二〇〇文・中一五〇文・下一二五文とし、昼食はその半額と定めた』、但し、箱館奉行官吏が直轄地で支払う宿料は従来通り変わらなかった。