『汐首岬砲台と戸井線について(2) -戸井線とコンクリートアーチ橋-』

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     〈函館産業遺産研究会〉富岡由夫(註1)山田佑平(註2)
                   平成11年5月25日

汐首灯台の下 8連アーチの汐首鉄橋


瀬田来第1陸橋(18連)


瀬田来第2陸橋(25連)


蓮内川陸橋(3連アーチ)

 
はじめに
 戸井線は、函館本線の五稜郭駅から分れて下海岸の戸井町字浜町までの29キロメートルの区間鉄道である。はじめは釜谷線ともいわれたが、この工事が決まってから戸井線と通称されるようになった。そもそも戸井町釜谷の人々の願望に始まる。ここは不経済路線で計画に上がらないのが通常だが、国防上軍事的価値(津軽海峡東口防衛)から昭和11年(1936)着工された。
 戸井線での1番の難工事は汐首岬を迂回する箇所である。海に迫る断崖に阻まれ、多くの石垣やコンクリートアーチ橋やトンネルが造られた。しかし、工事は戦況−太平洋戦争の急迫で、この難工事を終え、終点戸井まであと3キロメートルの地点で中止になった。
 ここでは、戸井線の工事概要と(鉄橋の代りに取り入れられた)コンクリートアーチ橋について述べるとともに、その特徴−すぐれている点について触れたいと思う。
 この『戸井線路線図』全体図を図1−1、図1−2に示す。

図1‐1 戸井線路線図


図1‐2 戸井線路線図

 
戸井線の建設
 その目的 大正12年12月、要塞整理要領が決まり、津軽海峡東口の防衛に大間崎と汐首岬が重視され砲台が造られることになった。対岸の大間崎砲台は大正13年着工・昭和6年完成、汐首岬砲台(戸井砲台)は昭和4年(1928)に着工、同8年(1932)完成した。海岸砲台建設の場所は交通不便な岬部分が多く、工事資材や砲身のような重量物を運ぶのは大変な作業であった。貨物船で運ぶためには繋船場、トロッコ軌道など運搬施設をまず造らなければならない。昭和11年には海峡西口の白神岬砲台、12年には対岸の龍飛崎砲台も着工、このような軍事的な状況が戸井線建設を急がせたものと推測する。
 ・昭和10年(1935)の鉄道建設審議会で建設が決定、翌、昭和11年着工となった。
 ・同12~16年、大間・福山(白神)鉄道路線にも工事予算が付き工事が開始された。
 ○戸井線の工事は実際に測量開始の昭和11年から、中止になった17年9月までである。
 
工事概要
 工事は昭和11年10月北海道建設事務所の所轄となる。工区は全線29キロを5つの工区に分け順次建設することになった。
 この線の駅舎は、五稜郭駅より終点戸井駅までの10駅とした。以下その概要を記す。
 

工事概要


駅名及び駅間距離等

 第1工区では深堀の切落としが大工事であった。昭和14年頃切通しを造成するためにレールが敷かれ、小さな蒸気機関車が土砂用の貨車を牽く姿を見た人も多い。
 第2工区では松倉川・汐川を渡ることになる。ここでは橋脚を構築したことに止どまり橋桁をかけることはなかった。当時、橋梁用鋼材は軍事優先で非常に不足していた。この工区の古川地区、汐川付近にはタコ部屋が作られ30人程が寝まりしていた。工事は昼間だけの人力による土木工事を主とし冬季間は休止していた。
 汐首岬の第4工区の甲は札幌の地崎組が請負、汐首岬第1陸橋(汐首陸橋)を手がけた。コンクリート橋にしたのは鉄材の入手が難しかったからである。都市部の輸送の多いところでは鉄製の橋梁とし、人口の希薄なところや山岳地帯はコンクリート橋にするのが方針であったようである。骨材の砂利などは現地入手がしやすく運搬費用が少なくて済むという利点もあった。コンクリートアーチ橋については、北海道の士幌線・音更川橋梁で設計強度など、すでに実証済みであった。
 第4工区の乙には、トンネル2か所(310メートル・10メートル)とコンクリートアーチ陸橋が2か所(瀬田来第1陸橋・同、第2陸橋)、さらにコンクリートアーチ橋梁1か所(蓬内川橋梁)がある。この工区は距離は1.6キロメートルと1番短いが最も困難な工事現場であった。
 この汐首岬を迂回する工事には、数百メートルもの石垣工事も行われている。汐首岬灯台の裏山には「雷落とし」といわれる安山岩が広く露出している地帯がある。石垣工事はここの石を用いた。工事の安全を祈願した竜神堂が今も残る。神のご加護があったからか、石垣もコンクリートアーチも未だにびくともしない。
 この第4工区の『汐首岬路線詳細図』(図2)と『コンクリートアーチ橋概観図』を(図3)に示す。汐首陸橋、蓬内川橋梁はスパン距離が6.3メートル、12.2メートルと大きいが瀬田来陸橋は3.2メートル、3メートルと小さく長いのが特徴である。

図2 汐首岬路線詳細図


図3 コンクリートアーチ橋概観図

 このようにして路線工事は、昭和17年9月には、終点戸井駅の手前3キロメートルの地点まで進んだ。竣工の予定は昭和19年であったが、戦況の悪化により、軍事のための建設の筈であったが不急の鉄道としてここで工事は中止となった。
 
戸井線の払下げと路線後の利用
 一部を除いて、レールを敷設するばかりに完成していた戸井線用地は、昭和49年(1971)9月、全線一括、総額8,568万円で函館市に払下げられた。なお、トンネル、橋梁など土木施設はそれに含まれず無償で譲渡された。その後、戸井町は管轄区域の路線・施設を函館市から無償で譲渡された。ただ、路線は函館市の場合は平地部分が多く、戸井町の区間は利用価値のない断崖沿いの構造物・コンクリートアーチ橋やトンネル、石垣の部分がほとんどで利害は一様ではなかった。
 
払下げ後の状況(函館市の場合)
 函館市内は平坦地の路線の道路利用が多い。道幅を拡げ幹線道路としたところ、深堀の切通しは自転車道路を合わせて遊歩道とした。この遊歩道は昭和53年に整備したもので2,500メートル(途中200メートルは幹線道路と共用)は緑の多い散策路「緑園通り」として多くの市民に親しまれている。桜・ツツジなど四季折々の樹木や小さな休憩所・水飲場などを備えた小公園の趣を呈している。この遊歩道の上を、路線工事のとき造られたコンクリートアーチ橋が跨線橋として残っており、生活道路として今なお健在である。
 これは3基あった内の1基で、当時の工法など現在も観察できる貴重な存在である。
 一方、松倉川・汐川に造られた橋脚を生かし、橋を架け幹線道路に繋げる計画は最後まで遂行できなかった。

緑園道路とコンクリートアーチ橋

 
払下げ後の状況(戸井町の場合)
 戸井町の場合、小安地区は農道としての利用、瀬田来の蓬内川付近では橋が生活道路として利用されてきた。ただ、戸井町の場合この払下げを1度断ったいきさつがある。それは昭和48年、路盤(戸井線跡の)に溜まった雨水が鉄砲水となり崖下の民家や道路を押し流すという災害が発生したからである。この災害以降、国費による土砂崩れ・護岸の工事が計画的・継続的に行われている。
 昨今、産業遺産の調査研究が進み、戸井線のこの一連の構造物も、土木工学上での学術的な価値が再評価され、また観光資源として見直されてきており、地域では研究者と共にこの優れた景観保存に取組んでいる。
 東渡島を訪れる人々は、下海岸-汐首岬から瀬田来の海岸の崖っ縁に、忽然と現れた古代ローマの水道橋を思わせるアーチ橋の連続に、驚き感動する。観光資源としてさらなる活用法・環境の整備などが望まれる。
 
コンクリートアーチ橋の工法(コンクリート構造物としての価値)
 コンクリートアーチ橋は戦前の昭和10年(1935)から、戦時中の17年(1942)にかけて造られた。戦時体制による鉄不足は鉄道の建設に大きな影響を与えた。すなわち、鉄材なくして如何に強硬な構造体を造成するかが、大きな課題となった。
 試行錯誤の結果、コンクリートアーチ橋の場合、アーチ径10メートル位までは鉄筋を使用しなくても、強度的に十分な構造体を造ることができると評価されるに至った。それは、アーチの形状自体にもあるが、施工を7区分したブロック工法にもある。
 温度変化によるコンクリートの凝縮で亀裂のできるのを防ぐために、1区分の施工後、2日間放置・凝固してから次の区分の打設を行う方法である。これにより路盤に浸透した雨水も、この継ぎ目から染み出てくる。この継ぎ目がコンクリートに亀裂を生じさせない働きをしているものと考えられる。戸井線のコンクリート橋、前述した緑園通り跨線橋(アーチ橋)では工法・様子が観察できる。瀬田来第1・第2陸橋はアーチ径が2~3メートルと小さいが、同じブロック工法を用いているのがよく分かる。
 この一連のアーチ橋は施工後、60年以上経過しているが未だ揺るぎもしない。
 戸井線は、戦時中のいわば“負の遺産”であろう。この戸井線は下海岸住民の大きな期待を受けながら、昭和11年五稜郭駅を起点として着工、同17年9月、終点戸井駅を3キロ先に見ながら突然中止となった。そして、再び日の当たることなく29年もの長きにわたり放置された。そして、昭和46年(1971)この“遺産”はようやく払い下げられ、一部は生活路・遊歩道として農道として息を吹き返したものの、川に残された橋脚部分や断崖の続く汐首地区の路線など取り残された部分も多い。それだけではなく、この地域のように断崖下に道路や民家が迫り、土砂崩れ対策に苦慮している所があるのも現状である。
 しかし、この汐首岬・瀬田来地区は断崖とアーチ橋が長い年月を経て馴染み、地域独特の景観を呈し、産業遺産である袋澗(明治期の鰯大漁期に構築された大規模な生簀)や、伝統的漁家住宅群も辺りに存在し、新しい観光地帯として注目を集めている。
 一連のコンクリートアーチ橋の構造的な価値、戦時中の鉄材不足を補った技術者たちの英知を顧みるとともに“負の遺産”から学ぶことも、また、意義深い観光事業となり得るのではなかろうか。
 以上『函館の産業遺産』No.4函館産業遺産研究会・平成11年(1999)、汐首砲台と戸井線について(2)−戸井線とコンクリートアーチ橋−・平成11年5月25日 より抜粋・記述
 
 (註1) 富岡由夫 函館産業遺産研究会会長・函館工業高等専門学校名誉教授
 (註2) 山田佑平 函館産業遺産研究会会員・元日魯造船社員(船大工棟梁)和船研究家