箱館港にはこれまで船造場がなく、新造船・破損船の修理は南部・津軽など内地で行っていた。また、港には掘割りがないため、小船が接岸して荷役を行うことができず不便を囲っていた。享和元年(1801)、役所は補助金を出し町人を使役し、内澗町(現大町)に掘割りを造り寄州の埋立てを行い船造場を設け、橋を架け栄国橋と名付けた。さらに高田屋嘉兵衛ら有志は地蔵町の寄州を埋立て築嶋を造った。嘉兵衛は願出て私費でこの築嶋につながる寄州を埋立て掘割りを造った。この面積、官の2,000坪余り嘉兵衛800坪余りとあるが、港に入る船の荷役が効率的になったことはいうまでもない。