津軽海峡東口灯台の概要

1137 ~ 1141 / 1483ページ
 ①恵山岬灯台 渡島半島東端、千島海流が洗う恵山岬に立つ白い灯台、初点灯は、明治23年(1890年)11月1日、建設当時は鉄骨・石油灯であった。
 津軽海峡を航行する船舶や、室蘭港に出入りする船舶の重要な目標である。霧信号所、無線方位信号所(中波ビーコン)も併置、海霧や雪などのため灯光が海上から見えない時霧笛を鳴らし、光の届かない遠い海上の船舶のため電波を1日中発信し恵山岬からの方位を知らせている。また、気象観測・海水観測(水産庁北海道区水産研究所嘱託業務)船舶への気象警報業務(函館海難防止会の嘱託業務)なども行う。
 現在は無人化となっている。

恵山岬灯台(平成17年撮影)

 
〈無人化に至る経緯〉 昭和43年(1968)4月17日、初点灯から78年の間に延べ207名の職員が家族とともに居住し勤務してきたが、この日以後、旧函館航路標識事務所から交替で出向して勤務する滞在管理となる。
 昭和59年(1984)12月11日、滞在を廃止し無人管理となる。
 
〈理由〉 灯台の機能が自動化されたこと及び、旧函館航路標識事務所(現函館海上保安部航行援助センター)から、遠隔監視が可能になり職員による定期巡回点検で対応できるようになったことから、職員が常時滞在する必要がなくなったためである。
 
〈恵山岬灯台の現況〉 函館海上保安部航行援助センター所管
 [北緯]41−41−55 [東経]141−11−01
 [塗色・構造]白色・塔形コンクリー造
 [灯質]等明暗白光 明3秒暗3秒
 [光度]46,000カンデラ
 [光達距離]17.5海里(約34キロメートル)
 [明弧]156度から335度まで
 [地上から構造物の高さ]18.85メートル
 [平均水面上から灯火までの高さ]44メートル
 [灯火年月日]1890年(明治23年)11月1日
 [灯器]メタハラ、灯質作成装置 [レンズ]3等不動大型
 [電球]MT−250 [電源]購入電力・発動発電機
 [灯塔型式]灯塔独立付属舎別棟
 
 ②汐首岬灯台 亀田半島、本州の大間崎に最も近い汐首岬に立つ白亜の灯台、初点灯は恵山岬灯台に遅れること3年の、明治26年(1893年)11月20日であるが、江戸末期1800年代には松前奉行により烽火台(かがり火の台)が設置され、船乗りの安全を助けていた。汐首灯台も建設当時は恵山岬と同じ鉄骨・石油灯であった。
 汐首岬灯台から対岸の大間崎灯台までは17.5キロで、北海道と本州の最短距離にあり、互いに津軽海峡を航行する船舶の大事な目標となっている。この海域も濃霧地帯のため、霧信号を併置し霧の日には霧笛を鳴らし運行する船舶に安全航行を促している。現在は恵山岬灯台と同様無人化となっている。

汐首岬灯台(江戸時代末烽火台があった)(平成17年撮影)

 
 〈無人化に至る経緯〉
 昭和43年(1968)4月17日、初点灯から75年の間に延べ205名の職員が家族とともに居住し勤務してきたが、この日以後、旧函館航路標識事務所から交替で出向して勤務する滞在管理となる。昭和59年(1984)12月11日、恵山岬灯台同様、滞在を廃止し無人管理となる。理由については省略する。
 
〈汐首岬灯台の現況〉 函館海上保安部航行援助センター所管
 [北緯]41−42−45 [東経]140−57ー51
 [塗色・構造]白色・塔形コンクリー造
 [灯質]群閃白光 毎20秒に2閃光
 [実効光度]410,000カンデラ
 [光達距離]19海里(約35キロメートル)
 [明弧]279度から98度まで
 [地上から構造物の高さ]11.63メートル
 [平均水面上から灯火までの高さ]50メートル
 [灯火年月日]1893年(明治26年)11月2日
 [灯器]LB−40 [電球]H−500
 [電源]購入電力・発動発電機 [灯塔型式]灯塔独立付属舎別棟
 
 ③日浦岬灯台 日浦岬灯台の初点灯は恵山・汐首岬に遅れること50余年、戦後間もなくの、昭和26年(1951)3月のことである。津軽海峡東口海域が危険な海域であることは屢々述べたが、豊浦から日浦・原木、武井の島にかけては、また、特別危険な水域である。出入りの激しい複雑な海岸線に平磯や岩礁が見え隠れし潮流も極めて速い。大型船舶は沿岸を避けて航行するが、この一帯は好漁場であり、戦中・戦後漁船の装備の悪かった時代、多数のイカ釣漁船などの遭難が絶えなかった。
 恵山岬・汐首岬灯台の死角にある日浦岬灯台は、海難防止のために重要な働きをしていながら、むしろ、その美しい景観から恵山観光のスポットとして知られる。恵山火山を遠く望み津軽海峡の青波を眼下に、柱状節理の岩壁の上に立つ、白亜の小さな灯台は確かに一幅の絵になる存在である。
 日浦岬灯台は設置当初から無人灯台であり、灯火は自動点滅装置で作動していた。日浦岬灯台概要には「光源には24ボルト300ワット電球を利用し灯室外に取り付けられた日光エン(蓋のようなもの)の働きによって自動的に日没、日の出時刻頃、点灯・消灯される」と説明されている。なお、日浦岬灯台には地元の松本専一郎氏が『航路標識看守補助員』に委託されその任に当たった。以下に、辞令書の内容を記す。
 
          辞 令 書
  松 本 専一郎
             第一管区海上保安本部長  松崎純生 印
  以下のとおり発令する。
 異動種目  非常勤任用      発令 昭和二十六年四月一日
 職級名   航路標識看守補助員  俸給 一月  三〇〇円
 所属部課  日浦岬灯台
 監督者   汐首岬灯台長
 職務内容と責任 主管灯台長の命を受け指定された灯台の状態を看守し
         異常のあった場合灯台長に報告すること

日浦岬灯台(平成17年撮影)

 
〈日浦岬灯台の現況〉 函館海上保安部航行援助センター所管
 [北緯]41−43−36 [東経]141−03−12
 [塗色・構造]白色・塔形コンクリー造
   [灯質]群明暗白光 明6秒暗2秒明2秒暗2秒
   [光度]8,500カンデラ
   [光達距離]13.5海里(約25キロメートル)
   [明弧]227度から241度まで赤光で暗礁を示す
   [地上から構造物の高さ]9.47メートル
   [平均水面上から灯火までの高さ]23.1メートル
   [灯火年月日]1951年(昭和26年)3月1日
   [灯器]LC官制器−(Ⅱ)型 [レンズ]300ミリメートル
   [電球]C−1 [電源]購入電力・蓄電池
   [灯塔型式]灯塔付属舎型
 
 ④大間崎灯台 大間町周辺の海は夏は濃霧を生じ、冬は西風が強く猛吹雪・大暴風雨となる。太平洋と日本海をつなぐ津軽海峡と大間町の弁天島の沖合は、とりわけ潮流が速いため、大型船でも進路を誤って散在する暗礁や弁天島に乗り上げ、船体を破損したり沈没する事故が多い。(大間町史より)
 
〈大間岬灯台の現況〉
 [北緯]41−33 [東経]140−55
 [塗色・構造]白色黒色の横縞・八角形コンクリート造
 [灯質]群閃白光 毎18秒12秒間3閃光
 [光度](30,000燭光)
 [光達距離]17海里(約32キロメートル)
 [明弧]312度より8度
 [地上から構造物の高さ]24.43メートル
 [平均水面上から灯火までの高さ]35.7メートル
 [灯火年月日]1921年(大正10年)11月1日
 ・霧信号を併置
 
恵山岬灯台を死守した職員達
 『噴火湾の空襲 荒木恵吾著(平成元年7月13日発行)』より
 昭和20年7月15日、椴法華村空襲の恵山岬灯台に対する波状的攻撃は、下海岸・陰海岸沿岸の空襲の中でも、苛烈を極める激しいものであった。
 空襲の当日灯台長は出張中で、留守宅や家族らの生命を気づかいながら、次々に破壊されていく通信施設を、必死で守ろうとした勇敢な職員達の姿を当時の職員だった矢島茂が、「灯光」10(昭和54年10月)に『恵山岬の海鳴り−太平洋戦争余話・灯台燃ゆ』と題して、自らの体験を記している。以下に、その内容を抜粋し記すこととする。
 
 昭和十八年八月三十一日、恵山沖で敵潜水艦の魚雷攻撃を受けた貨物船が沈没した。死傷者の被害は分からないが、郷土の海は既に敵の標的にされつつあったのである。
 恵山岬には兵隊が駐屯していた。初め数名の陸軍が恵山灯台第一員退息所の事務室駐在、後次第に増強され百名程になり、灯台より三百米余り椴法華村寄りの丘の雑林に陣地を構築。兵器は山砲二門と小銃若干だけであった。海軍は約四〇名が派遣され灯台用地に見張所を設置兵舎を隣接地に置いた。恵山の中腹に電波探知基地を設置し岬に大防空壕を掘ったが、銃器は携帯していなかった。村には防空監視哨が置かれた。
 当時の恵山岬灯台は泥や着色塗料を塗り、木の枝等を取り付け偽装していた。灯光は防空幕や遮蔽板などで減光して、空襲警報中は消灯した。
 昭和二十年七月十四日は朝から濃霧だったが、いつの間にか晴れ、波も静かな沖合に漁船が出ていた。正午近く「尻屋崎上空を北上する敵機あり」の防空情報が入り、磯谷沖から一機低空で姿を現し、続いて二、三機、計四機が眼の前の船舶に向かって集中機銃掃射をくわえ、室蘭方面へ飛び去った。双眼望遠鏡で見ると室蘭上空に敵機の大群が乱舞していた。そして、青函連絡船大被害の報せが入る。
 夕方襟裳岬灯台から無線通信で「有線障害により本局宛電報中継して欲しい」との依頼があり、暗号乱数表で訳文すると「敵の銃撃により燃料庫全焼、灯台無線霧笛は無事なり」とあり、いよいよ来るべきものが来たという緊迫感で身が引き締まる。
 昭和二十年七月十五日、灯台長はこの日、本局に出張して不在であり、代理矢島茂、小谷作治、佐々木由正、佐々木幹男、万年健三、島津正七 高鷹重三郎 古川孝太
 ・午前五時〇二分 警報発令。所員はそれぞれ配置に着く。
 ・午前八時一九分 防空情報発信。ただちに退避する。
 ・午前八時三〇分 グラマン四機の機銃掃射を受け、二〇〇キロ爆弾投下される。灯塔・無線施設を主に銃撃、第一退息所に焼夷弾落下。陸軍山砲発砲によりアンテナ線切断され通信不能となる。
 ・午前八時三〇分 敵機退却したので消火活動、反転襲撃を受け退却。主に霧笛無線を銃撃。
 ・午前八時五五分 油倉庫が発火延焼する。
 ・午前九時 洋上の敵艦近付く、室蘭に艦砲射撃。敵数機編隊の銃爆撃繰返される。重要書類を持って全所員海軍の防空壕へ退避する。
 ・午前一〇時 気象観測に向かうが銃爆撃甚だし。気象電報発信中椴法華局より函館局間の有線不通との電話、本局とも切断、以後発信は不能、観測のみ続行。
 ・午前一一時三〇分 敵機退却後出動したが火煙既に灯台、第一吏員退息所を敝う、全所員で消火活動をする。海軍の見張所長以下全員が懸命に協力してくれる。
 ・午後一時一〇分 官品物置と第二退息所への類焼を防止する。出来る限りの物品を搬出中に再び敵機が来襲、退避し敵機退却を待ち出動したが、第二退息所は猛火に包まれていて施す術はない。
 ・午後四時三〇分 火災、ほぼ鎮火したが『灯台は鉄骨と化し分銅の鉛は溶けて一塊の無残な姿となってしまう。点灯は不能である。』『霧笛舎は屋根に直撃を受け、ラッパと貯油缶一個は飛散し、窓や入り口は殆ど全焼し機銃の弾痕は無数の蜂の巣のようである。』屋根のエンジン、コンプレッサーは無事であったが業務執行は不能となる。やむを得ず無線の復旧整備・アンテナ線を仮設して送受信機等の応急修理や調整をなす。
 ・午後五時三五分 漸く大湊との通信が可能となる。充電用の発動機も応急処置す。
 ・午後六時 発動機の始動を得て、無線業務は充電用石油が有る限りほぼ遂行可能也。来襲敵機の数、延べ百余機におよんだが全所員が無事健在であった。家族は警報と同時に第一退避所に避難させ、続いて山中に避難、全員無事。
 十五日以来、所員は無線室に籠城して、無線・気象業務等の遂行に海軍と協力敢闘、適宜の処置に努める。
 〈昭和二十年七月十四日・十五日の空襲による恵山岬灯台の損害〉
 灯台焼損、宿舎・第一・二吏員退息所全焼、渡り廊下三か所全焼、石油貯蔵庫全焼、霧信号舎被弾、吹鳴ラッパ爆破、開閉機焼損以上