わが国の電報の歴史

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 わが国の電報のはじまりは、政府の明治元年(1868)の電信架設計画により、明治2年(1869)9月19日(註1)、旧島津藩で電信の研究に取組んだ寺島宗規(註2)が中心となり、東京・横浜間の電信線の工事を行ったのが日本における電報の本格的なはじまりである。
 その後、電信事業は急速に発展し明治8年(1875)には日本列島縦貫の電信線が完成し、明治14年(1881)には日本全土の電信網がほとんど完成した。技術的にも急速な進歩をみせ、有線通信はもちろん無線通信も発達し一般にも広く利用されるようになった。また、電話(後述)回線と一体に伝送網が形成され利用度も増していった。さらに最初のモースのモールス信号トン・ツー式音響電信機は、やがてより便利な印刷電信機(テレタイプ)に置き替えられ、電報の利用度も、昭和18年(1943)には1億170万通に達した。この電信も昭和31年(1956)には電話のようにダイアルで相手を選び、直接電報を送受する加入電信(テレックス)がはじめられた。
 北海道の電信は、工部省の予算が付かず、開拓使は明治5年6月、前出札幌本道の開削に合わせ、函館・札幌間を開拓使経費で電信架設することを願出、許可を得たことに始まる。翌7月、工部省係官の指導の下に測量を開始、電信架設工事は進められる。この電信柱の架設工事について、次のような布達(注意書)が出されている。
 
 『測量ノ柱木道筋ヘ相立ル筈ニ候条、抜取候義ハ勿論牛馬繋候義決テ相成ラズ』
 
 その後、明治6年5月、電信架設工事の事務は札幌本道建築係の手を離れ、札幌地区は開拓使札幌本庁、函館地区は函館支庁が担当することになり、函館では大町15番地に建坪31坪の電信局(函館電信郵便局)も設けられ電信工事は着々と進んだ。
 しかし、当時の北海道にとって電信の最も大きな機能は、政府・中央との情報交換であった。そのために、明治5年8月、東京・青森間の電信架設工事・津軽海峡に海底線の敷設が決定していたが両工事は遅々と進まず。この状況から黒田開拓使次官は、同6年5月18日、政府・正院に両工事の進捗を要請する伺書を提出(明治6年「稟裁録」)する。これを受けた正院は6月5日、「伺の趣諸般釐(り)正中に付難聞届事」と通知。これにより、明治7年1月、ようやく海底線敷設工事が始まった。この北海道の電信線建設及び器械等施工方法は、電信寮のもとで行い、費用は開拓使が負担することとなり、ようやく海底・陸上両工事が進捗。9月には札幌・小樽間竣工、試験通信が行われ、同月青森の「今別」と渡島の「福島」の海底線工事が竣工、続いて12月には函館小樽間も竣工し、官報の通信が行われた(『開事』『函館の電報電話史』)。
 明治8年(1875)3月20日には、函館・福山(松前)・森・長万部(8年10月に廃止)・室蘭・札幌・小樽の7電信局が開局した。なお、この電信局は同10年3月、各電信分局と改称された(明治10年「函館庁員分課誌」)。
 尻岸内村での電報利用は前にも述べたが、尻岸内郵便局の電信業務開始は、明治30年(1897)12月11日からである。又、古武井地区については、明治41年(1908)12月1日、古武井郵便局の電信業務開始からで、これには古武井硫黄鉱山の強い要望、併せて相応の負担金を受託したと推察する。
 
 (註1) 明治2年9月19日、新暦の10月23日を電信電話記念日としている。
 (注2) 寺島宗規(旧姓松木弘庵)、1856年、薩摩藩主島津斉彬の命令で電信機を作った。

栄国橋より函館西部方面を望む(明治6年)
電信柱には架線もみられる(北大図書館)


亀田橋南より北方面を望む(明治6年)
札幌本道電信線架設記念写真(北大図書館)


函館電信郵便局(明治10年)(北大図書館)