尻岸内小学校

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 1885年(明治18年)11月に大蔵省刊行の「開拓使事業報告第四編」には、次のように記録されている。
 
 尻岸内學校
 公立 渡島国亀田郡尻岸内村ニ在リ 敷地二十八坪
 明治十三年四月 村民各金ヲ醵シ186円余ヲ得假設ス
     五月 官林若干歩附與ヲ請フ
     六月 開業変則小学校ヲ教フ
     十月 教則修正維持方毎月一戸、金十銭ヲ徴収シ授業料ヲ合        テ校費ヲ辨ス
 
 同校に現存されている沿革史には、「明治十三年五月の創立にして、公立尻岸内小学校と称す。明治二十八年五月公立尻岸内尋常小学校と改称す。」「明治十三年五月尻岸内村字武井番外地に校舎を創設せしが、爾来戸数の増殖と共に通学区域の膨張を来し、明治二十五年五月字澗番外地に民地を借地して校舎を改築せり。」と、記されている。
 右記の文書では6月開業となっており、同校の現在の「沿革」では5月15日が開校とされているが、その根拠が明確でない。校名も「尻岸内小学校」ではなく「尻岸内學校」である。
 ただ、前節でも記した明治13年の郡長への報告文書の控えと思われる町有文書には、
 
  尻岸内學校 公立 壱棟
    明治十三年五月建築 教官 井田梅太郎
    學齢 九十人 内就学 弐拾三人 不就学 六十七人
 
 とある。
 また、前記の大蔵省の報告文書では、明治13年には、在籍生徒数が男21名、女4名、計25名となっており、翌14年には男6名、女0名で計6名となっている。19名も1年の間に減少している。
 5月建築とは5月には完成したことと思われるが、教員の配属等も含めて開校日は定かではない。
 このように、各記録文書に違いが見られるが学校に通うべき子どもが90人なのに、23名(25%の就学率)が学ぶ、小さな校舎ではあるが、やっと開校できたその日の喜びの子どもたちや村民の声を今は聞きたいものである。
 「尻岸内町史」には『……官の指導に力を得て正規の学校設置に努力を続け、ようやく住民の意見をまとめて学校設置を認可されて明治十三年、字武井番外地(現字豊浦)に一一坪二合五勺の教室、それに三坪七合五勺の教員室、あわせて一五坪(※約50平方メートル)、まるで小さな民家ほどしかない学校が建てられた。』とある。
 
 ところで、初代の校長は、1880年(明治13年)7月の北海道文書館保存の「小学訓導辞令録」によると「小学六等準訓導 井田梅太郎 尻岸内学校勤務申し付け事」とあり、7月に辞令が交付されているのである。
 このように明治初期には、「校長」という正式の発令はなかった。いずれも「小学○等訓導」あるいは「準訓導」「代用訓導(教員)」という辞令である。しかし、官報等の学校一覧には「学校長(首座教員)」と書かれている。
 ところで、同じ「辞令録」の明治15年2月から12月の文書綴りには「小学五等準訓導 天野米三郎 尻岸内学校在勤申付く事十五年三月十五日」とある。
 続いて「亀田郡役所伺届録」には明治17年9月12日付きの文書で「尻岸内小学校七等訓導 金子大五郎 辞職之儀ニテ上申」とあり、本国で兄が病気危篤で看護のために帰郷したいとの申出があり免官させてほしい旨の上申がなされている。
 また、函館市立図書館蔵の「函館縣學事第四年報」の明治18年公立小學校表には、校長が野村正之助となっている。
 ところが、尻岸内小学校の沿革に残されている歴代校長及び教職員の記録には「天野」、「金子」の名は見当たらない。しかも第2代目校長は野村正太郎と記されているが、これは同一人物で、どちらかが名前を間違えているのであろう。
 
 歴代校長  
  初代  井田梅太郎 明治13年 5月~明治18年 6月
  第2代 野村正太郎  〃18年 6月~ 〃20年 6月 
  第3代 柴田 喜作  〃20年 6月~ 〃25年10月
  第4代 登坂 景良  〃31年 5月~ 〃33年 7月
  第5代 佐々木三綱  〃33年 7月~ 〃34年 9月
  第6代 石沢末次郎  〃34年11月~ 〃44年 7月
  第7代 関  精造  〃44年11月~大正 2年11月
 教職員 
  河内 源吉     不詳   ~不詳
  岩間 之賢     〃    ~〃
  佐藤富士麿     〃    ~〃
  桜井 礼吉     明治33年 ~明治34年
  東福 ヤエ      〃34年 ~〃 44年
  永山 為治      〃40年 ~〃 40年    以下略
 
 これが現存している尻岸内小学校の教職員の記録である。
 明治15年は在籍児童は23名(不就学の児童は尻岸内学校だけで100名もあった)であり、1学級の変則学校では、教師は校長(首座教員)1人であったはずである。井田校長と野村校長との間に一般教師ではなく「天野」と「金子」校長が在勤したと考えられる。したがって、井田校長は道文書館の記録に基づくと明治13年7月から15年3月までの2年8ヶ月の在職となる。
 また、天野米三郎校長は第2代目となり、明治15年3月から3代目と思われる金子大五郎校長が赴任するまで在職していたことになる。
 その後は明治34年8月20日付けの新聞「蝦夷日報」の人事記事には次のように記されている。「尻岸内小学校訓導兼校長佐々木三綱氏は椴法華尋常小学校訓導兼校長七級下俸に、椴法華尋常小学校訓導兼校長原安太郎氏は、尻岸内尋常小学校訓導兼校長八級下俸に、転校となる。」とあり、「椴法華町史」には、この両氏はこの記事の通り在職した記録がある。
 第6代と記録されている石沢校長は、10年間も勤務したことになり、この時期の異動年数から見ても極めて長過ぎる。新聞辞令の原校長が少なくとも9代目となる可能性は大きいと思われる。しかし、石沢校長は1年未満の異動であり、原校長の9年間の在職も長過ぎと思われる。この間に校長の異動は当然あったのではなかろうか。