七月三日の参詣日の午前七時前後に、信仰者の外、好奇心組も混って、それぞれ車に分乗し、尻岸内町女那川から道々蛾眉野(がびの)―女那川(めながわ)線を通って、続々と丸山さんに登った。丸山さんの麓に着いて見ると、林道わきに真新しい木の鳥居が建っていた。参道も昨年までと違って、古い鳥居をくぐるように、笹がきれいに苅られていた。登りにかかる急斜面も、新しい道路が少し巾広く、登り易いように曲りくねってつけられていた。
急坂をあえぎあえぎ登って祠のある場所に到着して、毎年参詣している人々は、一様に驚嘆した。忽然として眼前に姿を現わしたのは、昨年までの祠ではなく、大きくて堂々たる社殿であった。
社殿の土台はコンクリートで固められ、ブロックを積み重ね、建物も大きく、今までの祠と比較すると驚く程立派な社殿であった。そして以前の祠は、新しい社殿の真向いに移転されていた。丸山さんの社殿がこのように改築されたことを、この日参詣した人々は噂にも聞いていなかったのである。
空身(からみ)で登るにも容易でないこのけわしい山の山頂に、誰も知らない間に忽然としてこの社殿が建てられたことを不思議に思い、関係者に聞いて見て、大体次のようなことが判明した。
この社殿は、弁才町の久保田キエが一人で寄進したもので、久保田キエの依頼により、函館市石崎町の原田組棟梁原田仙蔵が請負った。七月三日の参詣日までに竣工するようにという寄進者の希望であったので、五月上旬に着工した。基礎をコンクリートにし、ブロック建にすることにしたため、先ず建築資材を運び上げる道路を整備する仕事から始めたが、これに相当の日数を要した。
資材運搬のための道路を整備した後、セメント、砂、砂利、割栗、鉄筋、ブロック、水などをドサンコ馬の背で、現場まで運び上げ、木材は下で切り込んで麓までトラックで運び、ドサンコ馬で運べないような、角材(かくざい)、平物(ひらもの)、その他の長材は函館市米原町(旧亀尾)の佐藤福太郎が一本/\背負って現場まで運び上げたのである。佐藤福太郎は若い頃から木こりを業とし、素人相撲をとった力自慢の人であったが、この材料を運び上げた苦労は大へんであったと語っている。
こうして約二ヶ月の日数を費して、七月三日の参詣日間際(まぎわ)に完成したが、「参詣日まで誰にも話さないでくれ」という寄進者久保田キエの希望を守り、大工棟梁原田仙蔵、切込材料運搬者佐藤福太郎、ドサンコ馬の爺さんなど、建築工事に関係した人々は、何れも秘密を守ったのである。そのため久保田キエの家の近所の信仰者すら、登って見るまで誰一人、社殿改築のことを知らなかったのである。この日、久保田キエから社殿新築落成の祈祷を依頼された、宮川神社の神主小野武男も、三日前に「新築落成祈祷」を知らされたという。人の噂(うわさ)の広がることの早い今の時代に、如何に信仰によるものとはいい、見事に秘密が守られたものだと、参詣者一同感嘆したのである。
この日は社殿の寄進者久保田婆さんも参詣し、祈祷を依頼された小野神主、原田棟梁、佐藤福太郎などの工事関係者の外、信仰者が多数参詣した。。
この日、参詣が終って新社殿前での直会(なおらい)の時、寄進者の久保田婆さんに「このお宮を建てるのに、どれ位の金がかかったか」と尋ねたが、笑って答えなかった。そこで、婆さんのいないところで、原田棟梁に尋ねると「久保田の婆さんが、丸山さんのお宮を建ててくれたというので、婆さんと一しょにこの山の下の道路のところへ来たら、腰につけていた五十五万円の札束(さつたば)を出して『原田さんこの金で何とかお宮を建てて下さい』と手を合わせて頼むので、その信心に感じて引受けましたが、いざこの山へ登って現場を見て『これは大へんな仕事を引受けたものだ』と内心思いましたが、久保田婆さんの信心に感激し、損得(そんとく)抜きで建てたのです。切込み材料を背負い上げた佐藤さんも同様でした」と語った。
この日、久保田姿さんは「これでわたしは、いつ死んでも思い残すことはありません」といっていた。婆さんに「このお宮を建てたお金は、どうして蓄(たくわ)えたのか」と尋ねると「わたしは旧姓を島口(しまぐち)といい、弘前で生れましたが、若い時に戸井へ嫁に来たのです。わたしの弟が青森県選出の代議士をしていた時に、時々小遣い銭を送ってくれていたので、それを貯めていたのです。弟は一昨年死にました」と語った。
五十五万円もあったら、老い先短い老婆一人なので、ぜいたくして暮せるものを、丸山さんの社殿を一人で建てようと発願し、五十五万円を全部投げ出して、社殿の建築費に寄進したということは、常人ではできないことであり、近来珍しい奇篤な行為であると、参詣者一同感嘆し、信仰の不思議さに、非常な感銘を覚えたのである。
この日「お穴」の前に供えた二十数ケの鶏卵と大きなお供え餅が二つなくなった。函館から「神様に供えたものが短時間になくなるという馬鹿げたことがあるものか」と、その真偽(しんぎ)を確かめようという好奇心組も、白昼の不思議な現象に驚いていた。
久保田婆さんの異常な信仰心に感銘した人々が、新社殿に振鈴を寄進しようということになり、小野武男、宇美誠、堀田久善、四村善司、沢田熊蔵、野呂進等が、翌昭和四十六年の参詣日に、礼拝する時に鳴らす大きな振鈴を奉納した。参詣日には四村善司が函館から来た親戚の青年の運転する車にその大鈴を積んで参詣した。この日は朝からどしや降りの雨で、丸山さんの麓へ着いた頃は益々激しい雨になっていた。函館の青年は、丸山へ登るつもりがなかったので、雨具の用意をしていなかった。四村善司はその青年に「車の中で待っていてくれ」というと、青年は「どうせここまで来たのだから登って見る」といって、スプリングコートを着て、大鈴を肩にして一しょに登った。上り下りとも、どしや降りの雨のために雨具を着て行った人も殆んど下着まで濡(ぬ)れたのに、大鈴をかついで登った青年は、ほんの少しより濡れていなかった。このことも丸山さんの霊妙不可思議なこととして評判になった。
又前年の参詣日の帰り、原田棟梁の息子の運転する車に、小野神主が助手席に乗り、原田棟梁も乗って、原木川の林道を下ったが、丸山の麓を発車して間もなく、運転手が「急に眼が痛くなって、眼がかすんで先が見えない」といい出したので、小野神主が「川のところまで下ったら、川の水で眼を洗ったらいいだろう」といい、原木川へ出るまで徐行させて、ようやく川のところまで辿り着き、川の水で眼を洗い、やや視力を恢復して宮川神社まで来、直ちに金沢病院で手当てを受けた。
丸山さんのシャクナゲやツツジなどを採って里へ持ち帰ると何かの罰が当ると昔からいい伝えられているが、この日、原田棟梁の息子が丸山のシャクナゲを採って来て、こういうことになったので、「丸山さんの罰だろう」と参詣者はいい合ったのである。
こんなことが重なって、丸山信仰者が益々増加し、昭和四十六年の大雨の参詣日には五十数人の参詣者があった。この日は、雨のため毎年山上の社前で行っていた直会が出来ず、下山して宮川神社の社務所で直会を行った。この時、期せずして、「丸山明神奉讃会の結成」を申し合わせ、昭和四十七年九月、会が結成された。
戸井町から霊山・丸山へ行く道