大正七年一月十八日、函館区音羽町奈良亀太郎(五七才)亀太郎の二男要松(二三才)函館区弁天町山田佐助(三六才)函館区地蔵町富樫堅二(二十九才)の四名が、椴法華村から尾札部村字古部に行こうとして椴法華で磯舟を雇い、午前九時に椒法華村を出発した。
銚子岬にさしかかったところが、俄(にわ)かに北西の強風に変り、磯舟はあっという間に転覆し、四人の乗客と船を漕いでいた椴法華村の鎌田常世(三〇才)同村字矢尻浜増田寅九郎(二四才)の六名全員が溺死してしまった。
この遭難を目撃した村民や消防組員が急いで現場へ行ったが、遭難後一時間も経過していたので、一人も救助することができなかった。死体の捜索に当ったが、六名のうち奈良亀太郎父子と鎌田常世の屍体を発見しただけで、残りの三名の屍体は遂に発見することができなかった。