三、正六位勲五等 長谷川益雄(「附」長谷川家の系図)

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晩年の長谷川益雄

 長谷川益雄は明治十九年(一八八六)三月二十七日、医師長谷川重威(しげのり)の長男として、父の赴任地山越郡山越村に生れた。母タツは旧福山藩士山名左(ひだり)の長女である。
 明治二十四年、父重威が村立小安病院長に招かれ、山越村から戸井村字小安に移った。益雄はこの年小安簡易小学校(修業年限三ケ年)に入学、明治二十七年三月小安小学校を修了し、四月に函館区宝(たから)尋常高等小学校の尋常科四年に入学した。
 明治二十八年三月、宝小学校の尋常科を卒業、引続き四月に同校高等科に入学した。明治三十年四月、事情により、函館区弥生尋常高等小学校高等科三年として転校、明治三十二年三月同校高等科四年を卒業した。この間明治三十一年に父重威が戸井村字館鼻に移り、開業医となり「貫之堂(かんしどう)医院」と称した。
 明治三十二年四月、北海道庁立函館中学校(中部高校の前身)に入学した。明治三十二年七月、父重威は病院を字館鼻から蛯子川の川岸の高台に移した。
 明治三十八年三月、函館中学校を卒業し、同年四月、京都府立医学専門学校に入学した。明治四十三年六月、京都府立医専を卒業した。
 医専卒業後、明治四十三年七月から十月までの三ケ月間、及び翌明治四十四年七月から十月までの三ケ月間、合計六ケ月間、函館病院において実習に従事した。
 明治四十四年十一月から、戸井村の父の病院において、医療に従事した。
 大正二年三月、京都府立医専時代の学友の経営している丸谷医院の仕事を手伝うために樺太に渡り、七月まで樺太に滞在して医療に従事した。
 大正二年九月、亀田郡七飯村長の要請を受け、村立七重病院長として赴任した。この時益雄二十八才。
 大正三年九月二十六日、戸井村汐首小学校長藤伊哲の長女緑(みどり)と結婚した。大正四年二月十六日長女悦(えつ)が生れ、大正五年九月二十七日二女道(みち)が生れた。
 大正七年三月十日、父重威が、戸井村で死去した。享年六十才。益雄は父の後を継ぐことになり、大正七年十月、村立七重病院長を辞して、戸井村に移った。
 この年の十一月二十八日、妻緑がスペイン風邪(当時の俗称)にかかり、二人の幼子を残して死去した。
 大正十年四月十五日、山越郡八雲村吉田金次郎二女ヤスを後妻として迎えた。ヤスとの間に長男泰雄、二男重雄、三男智雄(ともお)、三女礼、四男昭雄の四男一女が生れた。
 昭和二十年二月五日早朝、火災により病院及び住宅を全焼した。昭和二十三年五月三十日、三男智雄が戸井村で死去した。享年二十四才。
 昭和三十九年十一月七日、多年戸井村の医療に献身した功労者として、議会の議決を経て名誉村民に推挙された。
 昭和四十二年十一月三日、多年僻地の医療に尽瘁(じんすい)した功労者として、勲五等に叙し、双光旭日章を授与された。
 昭和四十三年十二月二十八日、老令によって廃業後暇々に書き綴った追憶の手記をもとにして、日新中学校長野呂進が編集の任に当り、追憶の記『白菊』という書名により、自叙伝千部を出版して頒布した。昭和四十六年七月一日『白菊』の読後感集『白菊のこだま』三〇〇部を刊行した。
 昭和四十六年十一月二十四日、函館市の病院で病気療養中に死去した。享年八十六才。
 遺骸は戸井の自宅に移されて荼毘(だび)に付され、昭和四十六年十一月二十七日、戸井町中央公民館において、町葬の礼をもって葬儀が執行された。
 逝去の日付をもって正六位に叙せられた。
 故正六位勲五等長谷川益雄は、大正七年十月、父重威の後を継いで戸井の医師となり、爾来老令のため廃業した昭和四十年まで実に四十七年間、僻村戸井の住民の医療に献身し、その診断、治療、投薬は適確で名医として住民から讃えられ、貧困者からは治療投薬の代価をとらず、名利に恬淡(てんたん)たる風格、生活から仁医として住民から尊敬され、僻村には珍らしい正六位勲五等という叙位、叙勲に輝やき、八十六才の長寿を保って長逝し、名誉町民として町葬の礼をもって葬られたのである。
 長谷川益雄の祖先は、累代庄内藩に仕え、藩医を勤めた家柄であったが、重威の父赤水は三十六才にして庄内で死去し、明治維新の廃藩置県の大変革に遭遇した故赤水の妻エイは、赤水の遺児重威等を連れて渡道して函館に居を構え、艱難辛苦(かんなんしんく)して、長男赤水を医師として、父祖以来の医業を継がせ、孫である益雄をも医師としたのである。益雄の弟重郎も医師となり、弘前市で開業しており、益雄の二男重雄も医師として函館保健所に勤務しており、四男昭雄も医師となり札幌市で開業している。
 長谷川家繁栄の基礎を築いた長谷川赤水の妻エイは、天保十一年二月二日、庄内藩士、白井才兵衛の二女として、山形県西田川郡鶴岡町二百人町に生まれた人で、長谷川家繁栄の行末を見、大正四年八月二十八日、八十四才の長寿を保って、戸井村で長逝した。(昭和四七、三、一〇現在)
 長谷川赤水以後の長谷川家の系図は次の通りである。(詳細は長谷川益雄著「追憶の記白菊(しらぎく)」参照)

長谷川家の系図(昭和四七、二、一〇現在 野呂進調査)

偶感  長谷川赤馬
○南部岩高きに登り
       見はるかす
 津軽の山よみちのくの山
○汐首の み崎まわれば
        釡谷富士
 迎うる如くほほえみて立つ
○手すさみに屏風張りけり
        子や孫の
 語り草とも笑い草とも
(昭和四四・一二・二一)