明治十三年(一八八〇)に戸井、汐首、白浜に公立学校が創立され、二年おくれて明治十五年に小安学校が創立された。創立当時は修業年限四ケ年の変則(へんそく)小学校であったが、寺子屋や私塾(しじゅく)のように割合裕福(ゆうふく)な家庭の子弟がはいり、入退学も自由であったものと比べ、義務制として貧富の別なく、男子も女子も入学が義務づけられたため、各部落とも就学を嘆(なげ)く家が多かった。
貧乏人の子沢山で、父母が働くために、七、八才になると下の子の子守をさせ、十才位になるといろいろな家事の手伝いをさせたものである。漁師には学問は不要と考え、特に女の子には学問はいらないと考えていた時代であったので、子弟の義務就学で、一家の稼動力(かどうりょく)が減るといって嘆いたのである。子沢山の貧家の親たちは、就学免除を嘆願(たんがん)したが許されず、悲嘆(ひたん)にくれたという家が相当あった。
学校は始まったが、漁繁期には欠席児童が多く、勉強の嫌いな者は始終「かくれ休み」をし、子守をしながら学校へ通うという児童も多かった。
創立当初の頃の就学児童数が、当時の戸数や人口と比較して少なかったのは、いろいろな理由をつけて就学しなかった児童が相当あったのである。就学率を一〇〇%に高め、出席率を高めるために村や学校当局は非常に苦労したのである。
対岸下北の岩屋学校は明治十年五月創立、尻屋学校は明治八年二月創立であるが、明治十七年五月現在で、岩屋は学令児童四四名に対して、就学児童は二六名で、就学率は五九%、尻屋は学令児童二二名に対して、就学児童は一一名で就学率は五〇%であった。これでも「尻屋小学校は就学率五〇%で、岩屋の五九%と共に断然他校を抜いている」と『東通(ひがしどおり)村誌』に書かれている。明治十七年五月現在で東通村内十三学校の平均就学率は二八%であったのである。
下北地方よりも三年乃至五年遅れて開設された戸井村内の就学率も極めて低かったという。
各学校の開設当初の頃は、落語(らくご)や笑い話の材料になるような逸話(いつわ)があったものである。
明治十三年、汐首学校開設第一回目の入学児童の中に、境与三郎(〓境家の二代目)と隣家の関谷長作(大正初期に樺太へ移住)がいた。
最初の授業が終り、石盤(せきばん)と石筆(せきひつ)を風呂敷(ふろしき)に包んで背負い帰宅した与三郎の第一声は
「学校ツドゴ、オモスレドゴダナ。隣のアンコバ、チョウサグ(○○○○○)ッテ、ナメツケダデ、そしてオラバ、コンダヨサブロ(○○○○)ダドヨ」という親たちへの報告であった。
昔は汐首だけではなく、下海岸一帯の人々は、人の名前を満足に呼ばず、長男をアンコとかアンチャと呼び、弟をオンコ、オンス、オンチャなどど呼んだ。姉や妹は名前を呼びすてにした。嫁をアネと呼び、父をオド、ドッチャ、トッチャと呼び、母をアヤ、ガガ、チッチなどと呼んでいた。こういう呼び方は、昭和十年代まで続いた。
与三郎の翌日の報告
「今日(きょう)先生ア、アンコサイス(○○)持ってこいったけ、アンコア浜サいって石持ってきたケ、ソンデネ腰カゲルモンダド」
聞いた親たちは腹をかかえて笑った。下海岸の昔の人々はシとスの区別があいまいなので「椅子」と「石」とを間違ったのである。聞いた長作もイスとイシの区別がつかず、先生も東北生れで発音がおかしかったのであろう。
田舎の学校では、昭和十年代までも子守をしながら学校に来て、背中の子が泣くと廊下へ出て子供をあやすという光景は珍しくなかった。勉強道具を風呂敷に包み、昼食のにぎり飯を持って家を出、二、三人で誘い合って学校へ行かずに山へ行って、山ブドウを取ったり、ザッコをすくったりして遊び、にぎり飯を食い、みなが帰る頃に家へ帰るという「かくれ休み」というものも珍しくなかった。家事手伝いのための欠席やかくれ休みが重なって落第させられる児童も多かった。
終戦後は小学校だけでなく、新制中学の三年間も義務教育になり、農漁村でも七、八割の子弟が高校へ進学するようになり、戸井町内でも欠課や遅刻の原因になっている昆布採りのトモドリが問題になる程度のもので、昔と比較すれば全く隔世の感がある。